おまじない
ディランの背は、セナとはまた違う安定感があった。
揺れはほとんどなく、歩幅も呼吸も一定で、
眠気に沈みかけた意識がゆっくりとほどけていく。
「……ディランは、疲れてないの?」
背中越しに、そっと尋ねる。
「俺か?」
「うん。昨日、夜通しついててくれたでしょ?」
一瞬、歩みが緩んだ気がした。
「大丈夫だよ」
静かな声だった。
「君が眠っている間は、特に何もしていない」
「……それ、休んでないっていうんじゃ」
「椅子に座っていた」
「それを休みって言わないよ」
小さく抗議すると、ディランはふっと息を漏らした。
「……確かに」
そう認めてから、少しだけ声を和らげる。
「だが、疲れていても構わない」
「どうして?」
「目を離したくなかった」
短い言葉だったが、迷いはなかった。
「君がうなされるたびに、呼ばれるのではないかと思ってな」
「……」
胸の奥が、きゅっとする。
「ごめんね」
「謝ることじゃない」
即答だった。
回廊を進む足音が、規則正しく響く。
「……ディラン」
「なんだ」
「ありがとう」
背中越しでも分かった。
その言葉に、彼の肩がほんのわずかに緩む。
「礼を言われるほどのことではない」
「でも……嬉しかった」
そう呟くと、少し間が空いた。
「……そうか」
それだけだったけれど、声はどこか柔らかかった。
部屋の扉が見えてくる。
中から、控えめな足音。
「――お帰りなさいませ」
ユウリの声が聞こえた。
ディランは歩みを止め、静かに言う。
「もう少しだ。起きていられるか?」
「……たぶん」
「無理なら、そのままでいい」
そう言って、彼はさらに腕に力を込めた。
その背中は、最後まで揺るがなかった。
気づけば、深い眠りに落ちていた。
次に目を開けたとき、
部屋の中は夕焼け色に満ちていた。
窓から差し込む橙の光が、床にも壁にもやわらかく滲んでいる。
「……夕方……?」
思ったより、ずいぶん長く眠ってしまったらしい。
こんなにのんびりすることは、滅多にない。
(でも……)
体を起こすと、まだ少し力が入りにくい。
体力も、だいぶ落ちてきちゃったな。
胸の奥が、わずかにざわつく。
焦り。
戦えない時間が長くなるほど、どうしても付きまとう感情。
私は窓をそっと開けた。
ひんやりとした夕風が、火照った頬を撫でる。
手を伸ばし、夕焼けの光に触れる。
「……気持ちいい」
そのときだった。
「あ、お嬢さま。おはよう」
気の抜けた、軽い声。
「……テオ」
窓のすぐ外で腰を下ろしていた彼と目が合う。
「よく眠れた?」
「うん」
「そっか。よかった」
へにゃりと、力の抜けた笑顔。
「さっきより、顔色よくなったね」
「……さっき?」
首を傾げると、テオは少しだけ目を逸らした。
「んー……昼?」
「長いよ」
「そうかも」
悪びれもせず笑う。
しばらく風の音だけが流れたあと、
不意に、テオの声が落ち着いた。
「……焦ってる?」
確信をつかれ少し戸惑ったが
「…うん。ちょっとだけ」
正直に答えると、彼は小さく頷いた。
「そっか」
それから、思い出すように言う。
「でもさ」
「『ご飯を食べるのも、休むのも、“騎士の仕事”なの』って
昔、お嬢さま言ってたよね」
「……確かに、言ったかも」
「それが今なんだよ」
まっすぐな声だった。
「お嬢さまが前に進むための、今の仕事」
「まさかテオにそんなこと言われると思わなかったな」
そう言うと、彼は肩をすくめた。
「失礼だなぁ」
でも、すぐに柔らかく笑う。
テオが立ち上がり、
そのまま軽やかに部屋の中へ入ってきた。
「ちょ、勝手に――」
「許可は顔で取った」
「取ってない」
「今、取れた」
距離が、ぐっと縮まる。
夕焼けの光の中、彼は私の前に立った。
「そんな顔で不安そうにしてたらさ」
声が、少しだけ低くなる。
「放っとけないでしょ」
テオは、夕焼けに伸ばしていた私の手をそっと包んだ。
「……冷えてる」
「風に当たってたから」
「だめ」
指先を包んだまま、離さない。
「今は、戦う手じゃない」
親指で、ゆっくりと手の甲をなぞる。
「ちゃんと戻るための手だ」
胸の奥が、じんと熱くなる。
「焦らなくていい」
すぐ近くで、囁く。
「取り戻す時間も、全部含めて――
お嬢さまなんだから」
「……テオ」
「ん?」
「ありがとう」
少し照れたように言うと、
テオはふっと笑った。
「どういたしまして」
そのまま、軽く身をかがめて――
おでこに、そっとキスが落ちる。
「……な、なにを……!」
「おまじない」
「おまじない?」
「そ」
いたずらっぽく片目を閉じる。
「お嬢さまが、ちゃんと元気になりますようにって」
「そんなの、効くの?」
「効くよ」
即答だった。
「だってさ」
額を離さず、近い距離で囁く。
「俺が願ったんだから」
心臓が、どくんと大きく鳴った。
「……ずるい」
「今だけ特別」
そう言って、ようやく一歩下がる。
夕焼けの光が、2人の間を満たす。
「無理に強くならなくていい
倒れたって、立ち止まったって
ちゃんと戻ってくるって、俺は知ってる」
少し間を空けて口を開く。
「俺ね…お嬢さまが大好き」
熱を帯びた視線が絡む。
「それは…知ってる」
「そっか」
窓の外で、鐘の音が夕暮れを告げた。
「ほら」
テオはにっと笑う。
「夕飯の時間だ。
またユウリに怒られる前に戻らなきゃ」
「……ほんと、自由だね」
「お嬢さまの前だけ」
そう言って、窓枠に手をかける。
「また来るよ」
「今度は堂々と来て」
「それじゃ面白くない」
最後にもう一度、やわらかな笑顔を向けて。
「おやすみ前に、ちゃんと温かいもの食べるんだよ」
ひらりと身を翻し、夕焼けの中へ消えていった。
窓辺には、まだ微かな温もりが残っていた。
胸の奥に、確かな安心を抱えながら――
私はゆっくりと、深呼吸をした。




