第三話 左心
※本作は「月下櫻涙」本編に連なる短編・外伝・予告編を収録した作品集です。
俺は酒を飲む。
飲まないと、夜が長すぎる。
一杯、二杯、三杯。
濁った匂いが鼻を突き、喉を焼く。
舌が痺れ、頭が鈍くなり、ようやく周囲の音が遠のく。
考えなければならないことも、思い出したくない顔も、酒の底へ沈んでいく。
春は、いつも黙っていた。
俺が怒鳴っても、手を上げても、声を荒げることはなかった。
その沈黙が、ひどく腹に立った。
何も言わないくせに、目だけは逸らさない。
責めてもいない。
哀れんでもいない。
ただ、逃げなかった。
それが、俺には一番きつかった。
だから殴った。
手を振り上げる前、止まる時間は確かにあった。
ほんの一瞬だが、考える余地はあったはずだ。
それでも俺は、その一瞬から目を背けた。
酒のせいだと、何度も自分に言い聞かせた。
実際、酒がなければ、あんなに簡単に手は出なかったかもしれない。
そうやって、俺はすべてを酒に押し付けた。
生まれたばかりの子を見たのは、あの日が最初で最後だった。
小さかった。
あまりにも軽そうで、壊れやすそうで。
俺は近づかず、遠くから眺めただけだった。
抱けば、何かを選ばなければならなくなる気がした。
それが、怖かった。
首から胸にかけて、妙な痣があった。
汚れのように見え、気味の悪さが先に立つ。
思わず、吐き捨てるように言葉が漏れた。
「……気味が悪い」
春は、何か言いかけた。
だが、言葉になる前に、俺は背を向けた。
見なければ、考えずに済む。
そう思い込もうとした。
あの日のことは、何度も夢に出る。
春の息が止まった瞬間の、あの不自然な静けさ。
泣き声を上げない赤子。
血の匂い。
床に転がった酒瓶。
俺は逃げた。
考えるより先に、体が動いた。
逃げ道を選ぶことだけは、昔から得意だった。
子どもは、どこかに捨てた。
生きていようが、死んでいようが、関係ないと思い込んだ。
……そう思わなければ、生きていけなかった。
夜になると、不意に考える。
もし、あのとき。
ほんの一息、酒を置いていたら。
怒鳴る前に、口を閉じていたら。
殴らずに、春の声を最後まで聞いていたら。
痣を見ても、「気味が悪い」ではなく、
「大丈夫だ」と言ってやれていたら。
春は、あんな目で俺を見なかっただろうか。
子どもは、俺の胸で眠っていたのだろうか。
そんな想像をするのは、決まって、もう取り返しのつかない夜だけだ。
正しい選択肢は、いつも後になって浮かび上がる。
その頃には、選ぶ時間など、もう残されていない。
人は、後悔するようなことをしてはいけない。
正しく生きるとは、立派であることじゃない。
逃げないこと。
向き合うこと。
その場で一番楽な道を選ばないこと。
寂しいのは、俺だけではない。
それに気づく前に、すべてを壊してしまった。
だから俺は、今日も酒を飲む。
考えなければ、後悔も湧いてこない。
後悔しなければ、自分がどれほど取り返しのつかないことをしたのか、思い出さずに済む。
それでも。
酒が切れる、ほんの一瞬。
胸の奥が、ひどく痛む。
あの子の身体は、冷たかっただろうか。
抱けば、温もりはあっただろうか。
それを確かめなかったこと自体が、俺の罪だ。
そんなことを考えてしまう俺に、正しく生きる資格など、最初からなかったのだろう。
だから、せめて願う。
それは祈りではない。
叶わないと分かっている、ただの後悔だ。
誰かが、あの子を拾っていることを。
首や胸元に痣があっても、それでも、生きていていいと告げてくれる人のもとで。
正しく生きていれば、いつか誰かが、その存在を認めてくれる。
その当たり前を、俺は一番大事な瞬間に選ばなかった。
それが、俺に残された唯一の後悔だ。
もう、取り戻せないと知りながら……
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




