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第二話 守りの春

※本作は「月下櫻涙」本編に連なる短編・外伝・予告編を収録した作品集です。

私は、春という。


この名前を、誰かが優しく呼んでくれた記憶は、もう遠い。

けれど、この子だけは違った。

小さな手が私の指を掴むたび、私は確かに母親だった。


逃げようと思ったことは何度もある。

夜明け前、家の隅で身を縮めながら、このまま目を閉じて、どこかへ消えてしまえたらと願った。


それでも背中を引き留めるものがあった。

布団の中から聞こえる、かすかな寝息。

不規則で、頼りなくて、それでも必死に生きようとする音。


この子の呼吸がある限り、私はここにいなければならなかった。


生まれたときから、この子の身体には桜のような痣があった。

白い肌に浮かぶ、淡い花びらの影。


最初にそれを見た産婆は、一瞬だけ言葉を失い、すぐに視線を逸らした。


村の人たちはすぐに気づき、そしてすぐに決めつけた。


縁起が悪い。

穢れている。

前世で何かしたに違いない。

近づくな。


その言葉は、本当は私に向けられていた。

女として、妻として、まともでなかった私に。


それでも、矢面に立たされたのは、いつもこの子だった。


私はこの子の前に立つ。

背中を伸ばし、視線を受け止める。

何度でも、何度でも。


「ごめんなさい」

「違うんです」

「この子は悪くありません」


謝る理由など、どこにもなかった。

それでも言わずにはいられなかった。


誰も聞いていなかった。

それでも言い続けた。


夜になると、家は静かになる。

静かすぎて、障子の向こうの気配まで、はっきりとわかる。


夫の足音。

酒の匂い。

荒くなる息。


夫の機嫌は天気よりも当てにならない。

理由は、いつも後づけだった。


飯が遅い。

音がうるさい。

目障りだ。


殴られる理由など、最初から存在しなかった。


痛みは、慣れる。

最初は声が漏れ、涙が出た。

やがて音だけが残り、最後には何も感じなくなる。


骨の奥が軋む感覚も、皮膚が裂ける音も、呼吸が止まりそうになる苦しさも。

すべて耐えられた。


ただ、この子が泣くことだけは、どうしても耐えられなかった。


だから私は声を出さない。

歯を食いしばり、喉を潰し、息を殺す。


この子の耳を胸に押し当て、聞こえるものを私の鼓動だけにする。


大丈夫。

母さんは、ここにいる。

どこにも行かない。


それだけを、何度も伝えた。


最後の夜、夫の視線がこの子に向いた。


その一瞬で、すべてが終わった。


怖さも、痛みも、未来も、名前も。

すべて、どうでもよくなった。


残ったのは、「守らなければならない」という衝動だけ。


「この子に、触らないで」


声は震えていたと思う。

それでも逃げなかった。


私は前に出た。

腕を伸ばし、身体を重ね、盾になる。


殴られ、倒れ、息が詰まり、視界が揺れても。

腕だけは離さなかった。


この子の温度が、そこにあったから。


床は冷たく、血の匂いが濃くなっていく。


遠くで何かが割れる音がした。

それが何だったのかは、もう分からない。


視界が滲む中で、私は思った。


ああ、守れた。

それでいい。


名前も価値も、誰にどう言われようと。

この子が生きていれば、それでいい。


この子が朝を迎えられるなら。

息を続けられるなら。


最後に聞こえたのは、この子の、かすかな息だった。


それが、私の世界のすべてだった。




――私は、春。

この子の母だ。




そして、ここからは、もう一人の私の声。


世界中の母親は、皆、自分の子供を愛している。

それは教えられるものではなく、疑うこともできない。

最初から、そこにある想いだ。


どんな状況に置かれても、どれほど追い詰められても。

母親は、子供を裏切るという選択だけはしない。


傷つけられても、否定されても、価値がないと言われても。


他の誰が何と言おうと、母親は、ただ一人の「一番の味方」であり続ける。


だから、覚えていてほしい。


今、苦しんでいるあなたも。

声を奪われ、自分の価値を疑い、一人だと思い込んでいるあなたも。


本当は、独りではない。


声を上げられなくてもいい。

強くなくてもいい。

誰にも言えないと思ってもいい。


それでも、あなたのそばには、必ず味方がいる。


それは母かもしれない。

友かもしれない。

まだ出会っていない誰かかもしれない。


あなたが気づいていないだけで、あなたを守ろうとする想いは、確かにこの世界に存在している。


どうか、それだけは忘れないでほしい。


挿絵(By みてみん)

※本話の雰囲気をもとにしたイメージです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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