第一話 静かなる将軍
※本作は「月下櫻涙」本編に連なる短編・外伝・予告編を収録した作品集です。
私は、静かに息をしていた。
それだけのことが、これほどまでに重く苦しいものだとは、生きている間、一度も思わなかった。
胸の奥が、きしむように痛む。
息を吸うたびに、世界が少しずつ遠ざかっていくのが分かる。
天井はやけに高く、灯りは滲んで輪郭を失い、ゆらゆらと揺れていた。
誰かが私の名を呼んでいる気がした。
だが、その声は水の底から響いてくるようで、もはや言葉として掴むことができない。
――ああ、これが終わりなのだ。
徳川家綱として生きた四十年。
将軍として過ごした歳月を振り返れば、それはあまりにも静かなものだった。
幼くして、何も分からぬまま高座に座らされた。
選ぶことも、抗うことも許されず、ただ「将軍」であることだけを求められた人生だった。
笑えば「軽い」と言われ、黙っていれば「弱い」と囁かれた。
私は結局、強くなることができなかった。
刀を振るう将軍でもなければ、声高に命じる将軍でもない。
ただ壊さぬように。
ただ血を流させぬように。
それだけを願いながら生きてきた。
戦のない世を、この手からこぼさぬよう、息を潜めて歩いてきただけだ。
それはきっと、誰の記憶にも残らぬ生き方だったのだろう。
それでも、この国は今日まで血に染まらずに在る。
それだけが、私が将軍であった証だった。
ふと、町のことを思う。
朝の魚河岸で響く威勢のいい声。
桶を洗う水音。
値を呼ぶ声と混じり合う笑い。
井戸端で、他愛もない話に花を咲かせる女たち。
夕暮れ時、埃だらけになって走り回る子どもたち。
名も知らぬ無数の命の営みを、私は遠くから見つめることしかできなかった。
誰も私の名を覚えていなくていい。
誰も私を称えなくていい。
ただ、明日も同じ朝が来ること。
それだけで、将軍であった意味はあったのだ。
だが、私は本当は、もっと生きたかったのだと思う。
それは声に出して言えるような望みではなかった。
将軍という立場にあって、生に執着することは弱さとされたからだ。
だから私は、その想いを胸の奥に沈めたまま生きてきた。
しかし今、死の淵に立ち、沈めてきた感情が静かに浮かび上がってくる。
もう一度、あの町をこの目で見たかった。
人々が何事もなかったかのように一日を終え、
また次の朝を迎える、その奇跡を。
もっと笑顔を見たかった。
もっと、「生きていていい」と思える時間を、
この国に重ねていきたかった。
それは天下を治めたいという欲ではない。
名を残したいという野心でもない。
ただ、生きている人々の時間を、
もう少し長く見守りたかった。
それだけだった。
だが、命は選べない。
どれほど願っても、終わりは等しく訪れる。
だからこそ、私は祈る。
この先の世が、命を粗末にしない世であってほしいと。
生きることに疲れ、
「死にたい」と思う夜が訪れても、
その命を誰かが軽々しく裁くことのない世であってほしい。
そして最後に浮かんだのは、己の命ではなかった。
弟の顔だった。
綱吉。
優しさゆえに迷い、正しさゆえに傷つく男。
だが、優しさを失った天下よりも、
優しさに悩む天下の方が、私はいいと思っている。
どうか、命を軽んじないでくれ。
人も。
獣も。
名もなき小さきものも。
声を上げられぬものほど踏みつけられやすいこの世で、
どうか目を逸らさないでほしい。
私が守り切れなかったものを、
お前が拾い上げてくれ。
それが異端と呼ばれるとしても。
まぶたが、重くなる。
月の下で、音もなく散る桜が見える気がした。
咲いたことも、散ったことも、
誰にも知られぬまま土に還る花。
――あれは、私だ。
それでいい。
誰かの記憶に残らなくても、
理解されなくても。
ただ、この国がこれからも穏やかでありますように。
傷ついた者が、これ以上増えませんように。
その祈りだけを胸に、
私は静かに目を閉じた。
※本話の雰囲気をもとにしたイメージです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




