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記憶の底をゆっくり歩く

作者: P4rn0s

目を閉じたときにしか見えない景色がある。

まぶたの裏にぼんやりと広がるそれは、いつも静かで、音もなく、ただそこに在る。

昼でもなく、夜でもなく、どこかのあわいにある時間。

指の先で触れたとしても、たちまち溶けてしまうような、淡い記憶の断片たち。

そしてそのなかには、いつだって、きみがいる。

きみの姿があるのではなく、きみの“気配”がある。

風のかたちをした存在として、あるいは遠くで揺れるカーテンの動きとして。

そこにいるのに、目を開けると、もういない。


季節はもう何度も巡った。

窓の外の風景も少しずつ変わり、向かいの家の屋根が葺き替えられていたり、よく咲いていた花が枯れていたり、通学路を歩く子供たちのランドセルの色が変わっていたりする。

けれど部屋の中は、あの日から変わっていない。

本の置き方も、机の上のカップの位置も、冷蔵庫の扉に貼ったままのメモも、何一つ変えていない。

変える必要がなかった。

というより、変えられなかった。

カーテンの隙間から差し込む午後の光が、床にやわらかな影を落とすとき、僕の身体はほんの少しだけ、遠くへ連れていかれる。

それは旅ではなく、回帰でもなく、ただ漂流だ。

波も風もなく、ただただ、漂っていく。

どこに向かうのかもわからないまま、浮かんだまま、沈みきらず、揺れている。


誰かと話すとき、僕はうまく言葉を見つけられない。

質問に答えているはずなのに、自分が本当に何を言いたかったのか、よくわからなくなる。

笑った顔の裏に、昔の自分が隠れていて、その自分はいつも、きみの声を探している。

耳鳴りのように、小さな囁きがずっと響いているのに、それが何を言っているのかは、もう思い出せない。

たぶん、もう、思い出す必要もないのかもしれない。

でも、それでも耳を澄ませてしまうのは、きっとどこかでまだ、きみの声に答えたがっているからだ。


夜になると、時計の音だけが響く。

秒針が進む音は、ときに心臓の鼓動のようで、ときに、遠くの線路を走る電車の音に似ている。

昔、きみと並んで電車を待ったホームの風景がふいに浮かぶ。

雨が降っていた。

傘を持っていなくて、屋根の下に肩を寄せあって、何も話さなかった。

その沈黙が、僕には妙に心地よかった。

きみが何も言わないことに、安心していた。

言葉を重ねなくても、そこに在るというだけで、十分だった。

けれど、そういう安心は、いつも静かに終わりの始まりを連れてきていたのだと、今になって思う。

思い出の中のきみは、いつもどこか少し遠くにいる。

手を伸ばせば届きそうで、でも触れようとすると消えてしまう。

その距離が、あの頃からずっと変わらなかった。


たぶん、僕は最初からきみの隣にいたのではなく、きみの後ろを歩いていたのだと思う。

一歩後ろから、きみの髪が風に揺れるのを眺めていた。

追いつこうとすれば、なぜか風景は後退し、呼び止めようと声を出せば、音だけが空に溶けていった。

眠りの淵に落ちかける瞬間、ふいに身体が浮かぶような感覚に包まれることがある。

そのとき、僕はきみに会っている気がする。

名前も顔もぼやけていて、誰だかわからないのに、「きみ」だと確信できる。

そこには、言葉はない。

ただ、静かに見つめあっている。

見ているのか、見られているのか、それさえ曖昧なまま。

そして、目を覚ますと、また静かな朝が来ている。

カーテンの隙間から差し込む光が、まるで夢の続きのように、枕元を照らしている。

それは、ひかりという名前の記憶だったのかもしれない。

誰かが僕の部屋を訪れたら、ここにはもう何もないと言うかもしれない。

家具も少なく、飾り気もなく、気配もない。

でも、僕にはわかる。

この空間には、まだ残っているものがある。

言葉にできないもの。

捨てようとすればするほど、深く沈んでいくもの。

それを、僕は知っている。

だから、何も捨てられないまま、今日までここにいる。

きみのことを思い出したくて生きているわけじゃない。

忘れまいと努力しているわけでもない。

ただ、きみがいたという事実が、この部屋の空気や光や匂いの中に、今もなお混ざっている。

それだけが、今の僕を静かに繋ぎとめている。


音楽を聴くことがある。

きみが好きだった曲ではない。

でも、その旋律のなかに、きみの指先がふと重なってしまうときがある。

それは、胸を締めつけるような痛みではなく、呼吸のように自然で、ゆっくりと優しい。

まるで、「まだここにいるよ」と囁かれているような気さえしてしまう。

それが幻想でも、かまわない。

信じてしまったものだけが、僕の世界を照らす。


今日もまた、光が差し込んでいる。

昨日と同じ角度ではない。

時間は確かに動いていて、僕も少しずつ変わっているのだろう。

それでもなお、きみのことを思い出す。

それはもう、願いでも祈りでもなく、ただ、日々の一部として。

思い出すことでしか、生きていけないわけじゃない。

でも、思い出すことをやめたら、僕はもう僕じゃなくなる。

だから、今日もまた、何の意味もないような景色の中で、ふときみの気配を感じながら、静かに目を閉じて、そこに在るひかりのかたちを確かめる。


たしかに、まだ、そこにいる。

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