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アスイェ•Asyeh  作者: 新城凪
その二:無邪気な人は生きている
9/20

第八話:初めての病気

アスイェは、ただ一言、低く呟いた。

「俺は、出かける」

そのとき、彼のマントは、小さな手に掴まれていた。幼い指はまだ未熟で、力も足りず、それでも必死に布の端を握っている。


「お前を、連れては行かない」冷えた声音だった。

その子は足も短く、小さな体はまだ自分を支えきれず、傾けばすぐ転びそうだった。アスイェは一瞬、その様子を見下ろし、無言で片手を添えた。ごく僅かに押し戻すように支えると、子の身体はようやく安定し、その場に座った。

「お前を連れて行かない」


もう一度、同じ言葉が繰り返された。だが、手はまだ、離されていない。

赤子は、アスイェを一瞥した。その幼い目に、言葉の意味を探るような光があった。――その「連れて行かない」という言葉の中に、わずかな例外があるのではないかと。


けれど、アスイェの声には、揺らぎも隙もなかった。次の瞬間、彼はマントの内側から小瓶を一つ取り出す。細く、美しいガラス瓶だった。中には、新しい血が赤く揺れている。


それは彼の血だ。


赤子はその瓶を見つめたまま、手を伸ばせなかった。アスイェは静かにそれを彼女の手に置いた。女の子はようやく、瓶をしっかりと握りしめる。動きはまだ拙く、瓶を手の中でぎこちなく回しながら、まるで初めて「抱擁(ほうよう)」というものを知ったかのようだった。

「お腹が減ったら飲めばいい、すぐ戻る」

淡々とした口調だった。まるで約束でも命令でもなく、ただ一つの手順を告げるように。


アスイェは立ち上がり、数歩だけ進んでから、ふと振り返った。その子は、もうしっかりと座っていた。背中を壁に預け、小さな体を、まるで自分の重さすら忘れたかのように落ち着かせている。


寝台しんだいに尖ったものは何ひとつなく、分厚ぶあつい毛布が下に敷かれている。かりころげ落ちても、怪我けがをするほどの高さではなかった。アスイェは、そのすべてをひとつひとつ目で確かめると、黙ってかかとを返し、部屋をった。

扉が、静かに閉じられる。


少女はそのまま、扉を見つめ続けていた。動かず、声もなく、ただそこに――置かれたまま。やがて、ゆっくりと頭を垂れ、腕に抱えた瓶へ顔を近づけた。冷えたガラスが、頬に触れる。ほんのわずかな温度の差が、その身にひそやかな安堵あんどを与えた。


部屋には、沈黙ちんもくが降りた。風の音も、かね余韻よいんも、ここには届かない。


少女は、静かに、血を飲みはじめた。ゆっくりと、極端きょくたんにゆっくりと、まるでその味を身体に刻みつけるかのように、一滴ずつ確かめるように。

時間は、止まったかのようだった。どれほどの時が経ったのか――誰にも、わからなかった。


アスイェが戻ってきたとき、夜のとばりはまだ降りていなかった。扉を開けた瞬間、彼は部屋の温度が朝よりわずかに低いことに気づいた。日が、熱を連れて去ったのだろう――アスイェはそう思った。


扉を静かに閉め、彼はゆっくりと視線を寝台に向ける。その子は、倒れていた。

幼子の体は、人形のように動かず、手足は不自然な角度のまま。顔は瓶に貼り付き、指先は、まるで命綱いのちつなのように、瓶のそこを必死に掴んでいた。

アスイェはその子に歩み寄り、瓶の中をのぞき込む。中身は確かに減っていた。少しではあるが――この子は、飲んだのだ。


「どうした」声に焦りも、とがめもなかった。ただ、静かに問いかけた。まるで、その答えを急ぐ理由などどこにも存在しないかのように。


赤子は動いていなかった。顔はまだ瓶に貼り付いたままで、口元が、かすかに持ち上がる。弱々しい笑み――それは、海に浮かぶ泡のようだった。


何かを伝えたそうに見えたが、声にはならない。けれど、その満足げな表情だけは、どうしても隠しきれなかった。


素直な子だ、とアスイェは思った。


しばしの沈黙のあと、彼は手を伸ばす。海中の小さな魚をすくうように、その子を抱き上げた。


相変わらず、赤子の身体は軽い。

ほとんど重みがないほどに――それでも、確かに温もりがあった。

アスイェは大きく動くことなく、赤子の小さな体を自分の肩へと寄せ、負担のない姿勢で支えた。

その腕の中には、瓶を小さく抱きしめた。取られまいとするように、胸元にぎゅっと。


だがアスイェは、その瓶に手を伸ばさなかった。

――一度も、取り上げようとはしなかった。

赤子は目を閉じる。まるで、夢の底へ沈んでいくかのように、静かだった。


アスイェは、その子を寝台に戻すこともできた。だが、そうはしなかった。

赤子の呼吸は浅い。汗に濡れた額の髪が、頬にりついている。その体は熱を帯び、内側からじわりと温度が滲み出していた。


アスイェは、その光景こうけいを知っていた。――これは最初に出会ったときと同じだ。廃棄はいきされた玩具おもちゃのような、いのちのかたち。

彼は、ゆっくりと姿勢しせいを変える。赤子のあごを、自分の肩にあずけた。動きは、いつものように静かで、無駄むだがない。


赤子の体は赤く、熱かった。まるで火が灯されたかのように。

アスイェは、しばらく黙ってその身を抱いていた。

体温たいおんを感じていたのか、あるいは何かをはかっていたのか、それは分からない。


やがて、彼は幼子の背に、軽く手を当てた。叩くとも、撫でるともつかない。慰めでもなく、命令でもなかった。

だが、それは幼子にとって、何かの合図あいずになった。

数秒の沈黙の後、幼い彼女は突然、ひとつ息を吐いた。

まるで、うみの底から引き上げられたかのように。肩の不自然な震えが止まり、せきをひとつらした。


その体は、さらに熱を持つ。

幼子は震え、そして吐いた。飲み込んだはずの血が、胃の奥から逆流ぎゃくりゅうした。それは胃液いえきと混ざり、熱い鉄錆てつさびの匂いと、生臭なまぐさ未消化みしょうかのままのものを伴って、アスイェの腕に色を落とした。


幼子の体温は、皮膚ひふの下で波のように湧き上がっていた。副作用とも言えるような、その異様な熱。ほねずいまで焼き尽くすような熱――この小さな体には、明らかに過ぎた熱だった。


やがて、赤子は泣き出した。それは、これまでの鼻から漏れる不明瞭ふめいりょうな声でも、誰かに甘える声でもなかった。本物の「泣き声」だった。喉の奥から、きちんとした形で出た、鋭く、裂けるような声。


赤子は、自分が泣いていることすら理解できていなかった。その泣き声は、まるで闇を裂く光――重たいとばりを、刃物はもので無理やり引き裂くような音だった。

幼子はアスイェの襟元えりもとに手を伸ばし、汗と涙でその布を濡らした。初めて痛みを知ったのだ。痛みを知ることは、良いことだ。だが、それは良いものではない。


赤子は、全身全霊ぜんしんぜんれいで泣いていた。

アスイェは、ただその身を抱きしめた。最初は何も言わなかった。

だが、その手は、静かに幼子の背を撫でていた。


「……やっと痛みを知ったか」

低く、誰にも届かない声で、彼は呟いた。

幼子は、アスイェの言葉がわからなかった。ただ、泣き続けた。


アスイェは、その服が汚れていることも気にせず、幼子をきれいな毛布でくるんだ。今、彼は小さな炎を抱いている。だが、それも気にしなかった。

彼は静かに石の座に腰を下ろし、もう一度、幼子の背に手を当てた。今、この子には慰めが必要だと知っていたからだ。


――けれど、もし他の者がこの光景を見たら、きっと息を呑むだろう。とうといはずのアスイェが、幼子を慰めているなど。そんなことは、あり得ない。

それでも、その手付きには、やはり焦りも、とがめもなかった。その声はいつものように、ただ静かだった。



彼女はまだ泣いていた。だが、その声は、次第に細く、静かになっていく。

「……Si……a……」

意味のない声だった。それは、どこからともなく吹く、かすかな風に似ていた。

呼んでいるのか。それとも、ただの寝言か。わからない。

幼子は、アスイェの腕の中で小さく丸まって、まだ、彼の気配を探していた。



***



しばらくして、アスイェは立ち上がった。弱々しい幼子を抱え、聖堂の地下へ向かう。

そこには、ほとんど知られていない石の一室がある。外に比べ、さらに冷たい場所だった。雪の日にここへ来ることなど、本来ありえない。


だが、アスイェは、病んだ子をそこへ連れてきた。

灯りは蝋燭だけ。その火は頼りなく揺れ、今にも消えそうだった。暗闇が、すぐそこまで迫っている。


アスイェは、赤子を白い布の上に寝かせた。幼子は泣き止んでいたが、その顔は異様いように赤い。汗は止まらず、金色の髪は乱れたままだ。さっきから、状況は何も変わらない。幼子はまだ、苦しんでいた。


アスイェはもう一度、幼子の口を開けた。

喉の奥まで覗き込み、吐き残した液や詰まりを指先で払い、呼吸の通り道を確保し、くすりを与えた。


苦い薬だ。子は、それを拒もうとした。もがき、嫌がった。

だがアスイェは、黙ってその顎を押さえ、無理やり飲ませた。

薬はすぐに効いた。幼子の震えも、もがきも、止まった。

アスイェは、その顔をじっと見つめた。

「……茶番ちゃばんは、やっと終わったか?」

低い声で、ただ呟いた。


その問いに、答えはなかった。幼子はすでに夢の中にいた。やっと、ひとときの安らぎを見つけたようだった。

アスイェはどこへも行かなかった。その子が、彼の衣の端を掴んだまま眠っていたからだ。

アスイェの指が、幼子の首元にそっと触れた。微かな気配を感じ取る。それはアスイェ自身とは異なる、もっと人間らしい脈動だった。だが彼は、その違いを気に留めなかった。彼が確かめたかったのは、ただ「存在そんざい」だけだった。


アスイェは、幼子のそばに静かに横たわった。目を閉じると、その子の呼吸や、かすかな寝言が耳に入ってくる。冷たい空気と、その声は、石の壁をすり抜けるようにして、暗闇のなかで、まるで何かの遠いうたのように続いていた。


アスイェはその寝言に耳をかたむけてはいなかった。ただ、幼子の体を毛布で包み込み、もっと近く、自分の胸のほうへと抱き寄せた。

それは血の導きだったのか。それとも、ただの一人の感情だったのか――その答えは、まだ見つからない。

夜はさらに深くなり、外では、もう一度、鐘が鳴った。

けれど、幼子は深い夢の底にいて、静かに、眠り続けていた。


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