第七話:初めての眠り、初めての笑い声
冬の朝の光が、高い窓から聖堂に差し込み、石の座は変わらず冷たい輝きを返していた。アスイェは神座に腰を下ろし、マントの裾を床に垂らしたまま、長靴を無造作に組み、肘掛けに片手を預けている。その目は閉ざされ、まるで、終わりの見えない長い休眠に、ただ黙って耐えているかのようだった。
赤子はアスイェにしがみついていた。まるで、自分の小さな巣から這い出したくない、小動物のように。
赤子の髪は少しずつ伸びてきて、その輪郭から、ようやく性別が見えてきた。このか細い命は、女の子だった。
女の子の体は、吸血鬼とは違う。暖かく、脈打つ生気を宿していて、静かに澱むものではなかった。
彼女は、アスイェのボタンを掴もうとするように、かすかに指先を動かした。けれど、その指にはまだ十分な力がない。だから、その仕草はただ、触れたいと願う影のように見えた。
そして、彼女は自分の頬をアスイェの胸に押し当て、かすかな声を漏らした。
「……Sia」
アスイェは目を開けなかった。
「……Sia」
赤子は同じ言葉を繰り返し、必死にアスイェを呼んだ。
「……Sia」
二度目は、まるで駄々《だだ》をこねるような響きだった。まだその意味を理解しているはずもない。だが、そう呼べば、アスイェは自分を置いていかない――幼い本能だけが、彼女をそうさせていた。
「……Si――a」
三度目の呼びかけが途切れかけた瞬間、アスイェはようやく目を開けた。
その瞳に慰めの色はない。ただ、静まらない小さな身体をじっと見つめていた。
「その呼び方はするな」
アスイェの声は低く、静かだったが、その端に冷たさが滲んでいた。
彼女は小さく首をすくめた。だが、掴んだアスイェの襟元から、指は離れなかった。
アスイェは微動だにしなかった。 ただ、腕の中の赤子を見下ろす。
「俺は、たかが十七分しか目を閉じていない」
冷たく、乾いた声だった。
「俺は吸血鬼だ。胸にしがみついても、心臓の音なんて、最初から無い」
赤子は意味も分からず、鼻を鳴らし、もう一度、拙い声で呼んだ。
「……Sia」
アスイェはようやく、その小さな手を掴んだ。
拒むでもなく、優しくするでもなく、ただ、指をほどき、その手を自分の上から降す。
まるで重い毛布をそばに置いたように。
「きみは人間ではない。くっついていなくても生きてられる」
そう言いながらも、突き放す仕草にも見えたが、指先はわずかに、その子の手を包むように動いた。
すぐに離したが、力は込めなかった。
――本気で拒むなら、こんなふうにはしない。 アスイェは目を閉じたまま、再び動かなかった。 その子の手は、そのまま、彼の胸元に残された。
「もう一度そう呼んだら、地下室に捨てる」
赤子は、もう一度アスイェを呼びたかった。だが、その前にアスイェがそう言った。怒りのない、乾いた声だった。ただ、事実を告げるように。
赤子はゆっくりとアスイェから視線を外し、彼の腿の上に顔を伏せた。マントの布を小さな手で掴み、そのまま動かなくなった。
アスイェの脅しが効いたのか、ただ疲れ果てたのかはわからない。けれど、その呼吸はすぐに浅く、静かになり、その目だけが開いたまま、じっとアスイェを見つめていた。
アスイェは石の座に深く腰を下ろし、目を閉じた。遠くで、鐘の音が鳴り始める。
小さくため息をつき、アスイェは少女の背にそっと手を添えた。
***
鐘楼の上に、もう足場はなかった。石柱は裂け、欄干は途切れ、廃れた鐘楼の口から風が吹き込み、二人の衣の裾を静かに揺らしていく。
アスイェは赤子を抱き、崩れかけた石柱の端に立っていた。頼りないその足場は、一歩踏み外せば、二人まとめて闇に呑まれる。
アスイェのマントは風に煽られ、わずかに翻った。その布は、まるで小さな命を庇うように、月の光さえ遮っていた。
赤子は、アスイェの腕の中で静かに身を寄せている。まるで、最初から彼の身体の一部であったかのように。
その小さな手が、ふいに動いた。羽ばたくコウモリを目で追いながら、ゆっくりと手を伸ばす。
「欲しい」という感情すら、まだ知らない。言葉も、まだ覚えない。それでも、伸ばした。
コウモリは、あっけなく闇に消えていく。
アスイェは、腕の中の子を見下ろした。
「落ちたら、助けてやれないからな」
声音は淡々としていた。事実を告げるだけのように。だが、彼の腕はその小さな身体を確かに、逃がさぬように抱えていた。
赤子は、ただ目の前のコウモリに気を取られていた。そのコウモリが闇に溶けると、少女は消えた空へ向けて、かすかな声を洩らした。それは――笑い声だったのかもしれない。だが、その声はあまりに小さく、針が雪の上に落ちたとしても、まだその方が確かに聞こえるだろう。
風が、赤子の髪をかすかに持ち上げた。少女はもう一度、笑った。今度は、さっきよりはっきりと。短く、弾む音だった。
アスイェはその音を聞いたが、何も言わず、ただ手を少女の腰に添え続けた。まるで、壊れやすい美術品を抱えるように。
女の子は顔を上げた。アスイェを見つめ、その口元には、まだ微かな笑みが残っていた。その感情はあまりに幼く、まだ隠す術を持たない。
アスイェは、その喜びに応えなかった。ただ、少女を腕の中で、少しだけ持ち上げた。もっと遠くを見せるために。それだけだった。
風が吹いた。彼女はまだ、声を上げて笑っていた。まるで、自分の笑い声が――気に入っているかのように。
鐘楼の奥から、音がした。朽ちた鎖と、錆びた鐘がぶつかり合い、一度。また一度。それは、古い時代と、新しい命とが衝突する音だった。
子は、まだ笑っている。誰かの真似でもなければ、何かの答えでもない。ただ、風の中で微笑んだことを――この身が、覚えていただけ。




