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アスイェ•Asyeh  作者: 新城凪
その一:弱虫は生きている
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第三話:寒いのがいや、鐘の音が怖い


赤子はいつも、朝の光よりも早く目を覚めた。あるいは――これまで一度も、本当の眠りについたことなどなかったのかもしれない。

教会の暖炉だんろが、夜通し燃えることはない。とくに冬の夜明け前、気温は一気にそこを突く。石畳いしだたみの隙間からい出す冷気は、ふるびた木の扉さえ通り抜ける。

アスイェが目を覚ましたとき、火はすでに消えていた。暖炉だんろの中には、白く乾いた灰が、うっすらと積もっていた。空気は冷えていたが、静かだった。

赤子は泣いていなかった。ただ、だまって、揺籠ゆりかごの中にいた。まぶたを閉じ、小さな身体をたたみ、浅く呼吸を繰り返し、気配を限りなく薄めていた。

まるで、雪の中に埋もれた灰のようだった。アスイェは一度だけ、揺籠ゆりかごを見た。

執事はまだあらわれていなかった。彼は物音ひとつ立てずに歩を進め、赤子に近づいた。

赤子の身体は冷えきっていた。指先も唇も、色を失っていた。だが、それでも泣かなかった。泣いても意味がないと知っているようだった。誰も来ない。来ても、遅い。それを知っている者の顔をしていた。アスイェは何も言わなかった。ただ膝を折り、赤子を抱き上げた。その動作に、迷いはなかった。戸惑とまどいも、逡巡しゅんじゅんもなかった。彼はただ、赤子を自分の腕の中に置いた。それだけだった。

赤子は目を開けないまま、かすかに鼻先はなさきを動かし、何かを探るようにアスイェに寄った。

その匂いに、安心するように。力のない指が、彼の襟の端を掴んだ。アスイェは動かなかった。暖炉には、新たに火が入れられたが、彼は火のほうへは向かわなかった。暖かさを背に受けながら、振り返らず、視線も逸らさず、ただ揺籠ゆりかごの傍に立ち尽くしていた。

赤子の頭は、彼の肩にそっともたれていた。呼吸はまだ浅かったが、震えは止まっていた。

ほんのわずかに、ほんのかすかに、体温が戻りつつあるようにも思えた。

あるいは――冷たくない何かが、すぐ近くにあると、そう感じ取っただけかもしれない。

執事が部屋に入ってきたとき、その光景こうけを前に、わずかに足を止めた。

「まさか、お抱きになるとは――」

「可愛がっているつもりはない。このものは、ただ寒いだけだ。」アスイェは低く答えた。それでも彼は、赤子を手放てばなしていなかった。移動する気配もなかった。この場所で、この姿勢のまま、腕に赤子を抱いたまま、留まり続けていた。

彼にとって、次にすべきことはさほど重要ではなかった。この空間にいるのは、彼とこの子だけで、それだけで時間は十分すぎるほどにあった。その短いはずの時間を使って、アスイェは赤子を温めていた。――ただ、それだけのことだった。けれど、彼はそうしたいと思った。そうすることを、自分で選んだ。


教会の窓には霜が降りていた。風が古びた塔を吹き抜け、今にも落ちそうな金属の歯車を、ギイ、と鳴らした。その歯車はすでに廃棄されたもので、かつて何に使われていたのかを知る者はもういない。それでも歯車は、外れぬ風車かざぐるまのように、そこに在り続けている。

鐘が鳴った。塔の高みから、空洞(くうどう)の胸を貫くように、重く響き降りた。

アスイェは目を開けた。石の座に腰掛けたまま、反応はなかった。この音は、彼にとっては聞き飽きるほどに馴染んだものだった。七つの音。死者のたましいささげるレクイエムのように、月に一度、変わらず響く。

静かでも、騒がしくもない。ただ、彼はこの音が好きではなかった。

何も発せず、ただ座ったまま、その時間が過ぎるのを待った。許可もなく侵入しんにゅうしてくる振動。思考の隙間に入り込む騒音そうおん

――好きではなかった。

アスイェは耐えた。かつてと同じように、何も言わず、何もしめさず、ただじっとして鐘の音が止むのを待った。……そのはずだった。

だが、子が動いた。


まるで天敵てんてきに見つかった小動物しょうどうぶつのように、子は身をすくめ、毛布の中へとしずんだ。目を開くことも、泣くこともなく、かすれた音をひとつ漏らした。覚めているのか、まだ夢の中なのか、そのさかい曖昧あいまいだった。

アスイェは一瞥いちべつをくれた。だが子の顔は、すでに布の奥深くに隠れていた。

赤子は新しいものに触れた。痛みはなかった。ただ、そこにあったのは――初めて覚えた感情。嫌悪けんおと、恐怖きょうふ

鐘の音はとっくに止んでいたが、子の体はなお緊張に包まれていた。手足を縮こませ、気配を消そうとする小さな生き物のように。

アスイェはすぐには動かなかった。子が発する声――それは「声」と呼ぶにはあまりに細く、かすれた音で。まるで、迷子の子猫が夜のそこふるえるような音だった。

やがて、彼は立ち上がった。石の座を離れ、足音もなく子に近づく。

一瞬、視線を落とし、アスイェは口を開いた。唇をわずかに動かしながら、赤子に向けて、かつての吸血鬼の言葉をつむいだ。

それはすでに廃れた古語。今はもう、誰も用いぬ音。それは「言葉」というよりも、「響き」だった。

響きは空気を震わせ、重さを帯びて(そら)から静かに落ちていく。

赤子はそれを聞いた。身を小さく震わせ、そして――静かになった。言葉は理解できなくとも、その音の質だけは、体で理解できた。

これは風の音ではない。火のざわめきでもない。足音でもない。これは、アスイェの声だった。

――このひとは、知っている。

赤子は静かになった。相変わらず目は閉じたままだが、呼吸はゆっくりと整い、小さな手はまだ毛布の端を掴んでいたものの、その力は幾分いくぶんか緩んでいた。

アスイェもまた、何も言葉を発することなく、その場をしばらく離れなかった。先ほどの言葉は、命令でも慰めでもない。それは誰かの名のようでありながら、名ではなく、呼びかけのようでありながら、応えることを必要としない。ただ――この子が「誰に守られているのか」を告げるための音だった。

聖堂には再び静寂せいじゃくが戻る。風は止まず、どこかで金属の歯車が、風とともにかすかにいていた。それでも赤子は騒がなかった。


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