第十四話:その名の意味
炎はすでに消え、屋敷の中へと風が吹き込んでいた。その風は灰と血の匂いをまとい、割れた窓から静かに部屋へ入り込む。
幼子はアスイェの腕の中に隠れたまま、顔を出さない。アスイェはただその体を抱きとめ、離さずにいた。やがて、彼の手が幼子の瞼にそっと触れる。そのひとつの動きだけで、セラフィナの世界は静けさに包まれた。
――眠っているように見えた。だが、セラフィナの唇はわずかに動き、かすかな寝言をこぼしていた。
「……Sia……Sia……」
その声は軽く、夜の迷子になった雛が必死に羽を震わせるような響きだった。
「それは俺の名前じゃない。それは、ただの闇の中の音だ」
アスイェの声が部屋の奥に広がり、やがて闇の中へ溶けていく。
若い子供には意味など分からなくても、アスイェは静かに語りかけた。
セラフィナのまぶたがわずかに揺れ、目が開いた。まだ夢の残滓を抱えたように、幼い瞳はぼんやりとアスイェを映している。
「お前は――自分の声で、俺を呼ぶんだ」
静かに告げられた言葉が、セラフィナの中に届いた。彼女はゆっくりと口を開く。最初に漏れたのは、ひとつの音。
「……ア……」
その発声は痛みを伴うようで、声の震えとともに涙が滲んだ。
「……ス……イェ……」
最後の音が出た瞬間、まるで幼い祝福のように、部屋の蝋燭の火が小さく揺れた。
セラフィナはようやくその名を呼んだ。セラフィナはようやく、その名を呼んだ。意味も知らない音を並べたのではない。暗闇の中で自分を抱き上げてくれた者――父と等しい存在の名を、確かに呼んだ。
高貴な吸血鬼の名を、そのまま呼び捨てにできる幼子は、世界にこの子ひとりしかいない。
長い静寂ののち、アスイェはその呼びかけに応えた。彼は幼子の瞳を見つめ、静かに名を返す。
「……セラフィナ」
その瞬間、錠の外れるような音が、心の奥で響いた。「セラフィナ。――それが、お前の名前だ」
その名を自分へ向けられた瞬間、幼子はほんの少し大きくなったように見えた。
セラフィナは、これが“名”というものだと、初めて理解したのだ。
潤んだ瞳でアスイェを見上げる。その青は、アスイェと同じ色をしていながら、どこか違う光を宿していた。子供の無垢さとは別の、静かな生の気配がそこにあった。
セラフィナは小さく手を伸ばした。――「抱っこ」。それは、初めての願いだった。
アスイェは黙ってその小さな体を抱き上げ、指先でそっと背を撫でた。
セラフィナのまぶたがゆっくりと下りていく。「眠いなら、眠るといい」
アスイェの声は穏やかだった。彼は知っている。これはセラフィナが子として眠る、最後の夜だと。
セラフィナには、もう“名”がある。これからはその名とともに――吸血鬼として、生きていく。




