第十二話:牙(きば)
アスイェが目を覚ましたとき、最初に耳に入ったのは、衣擦れが石の床に触れるかすかな音だった。何かがそっと近づいてくる。
彼は本を読みながら、いつの間にか眠りに落ちていた。目を開けずに、指先で静かにページを閉じる。
――とてとて、と。小さな足音が続いていた。その足取りはどこか急いているようで、次の瞬間には腕の中に飛び込んできてもおかしくない気配さえあった。
アスイェは動かず、ただ待った。子供のわがままかもしれない、そう思いながら。
やがてセラフィナは、彼の傍らで足を止めた。大きすぎる服を羽織り、膝には赤い痕が残っている。何かを堪え、あがきながら、ようやくここに辿り着いたのだろう。
顔に表情はなく、ただ瞳の奥に一瞬、どこか怪しい赤が揺らいだ。
その輝きは、澄んだ柘榴石にも似ていた。
セラフィナは音も立てず、ただアスイェを見つめる。涙はとめどなくあふれ落ち、止まる気配さえなかった。
牙がのぞいていた。まだ生えそろってはいないが、痛みは確かに伴う。
アスイェは静かに息を吐き、身を起こした。その動きを追うように、セラフィナの瞳だけが揺れる。命令を待っているのか、考えを巡らせているのか、わからない。
小さく口が開き、唇が震えた。それでも彼女は動かない。
アスイェはただ見つめ、待った。彼の時間だけが、余っていた。幼い子供に「待つ」ことを教えるように。
しばらくして、ようやく声が落ちた。
「……おいで」
その言葉は、セラフィナにとってご褒美だった。
彼女はアスイェの腕に飛び込む。子供の手は小さく、まだ彼を抱きしめることはできない。ただ頭を肩に押しつけ、止められない涙を流した。
涙はぽたり、ぽたりと落ち、真珠のように静かにあふれていく。
アスイェはセラフィナを受け止めた。
その腕の中で、上着のボタンを噛む幼子がいた。
彼はまだ姿勢を変えず、ただその重みを支えていた。
やがて本を読むときの姿勢に戻り、セラフィナのうなじを軽く押さえ、胸に伏せさせた。
「……痛むのか」
返事はない。呼吸だけが浅く、乱れていた。
「なら、耐えろ」事実を告げるように、彼は言った。
アスイェはそのまま抱いていた。小さな獣を抱きとめるように。静まるのを、ただ待ちながら。
目の赤は消え、牙の痛みも和らぎ、震えていた体は静まった。アスイェはただ、セラフィナを待っていた。
やがて彼女は胸から顔を上げる。涙は止まっていた。だが瞳の奥には、まだ雫が残っている。それでも、視線を合わせてきた。
アスイェは逸らさず、慰めるように、髪をそっと耳にかけた。
セラフィナは小動物のように身を寄せ、何かを静かに堪えているようだった。アスイェは動かず、その姿を見ていた。
彼はセラフィナを見ることが好きだった。彼女は物事に対してほとんど反応を示さない。だからそれは観察ではなく、ただ「見る」という行為に近い。
求めずに見つめられることは、アスイェにとって滅多になかった。いつも求められるものは多い。例えば――血。
アスイェは問いかけた。
「……腹、すいてるのか」
その瞬間、反応があった。セラフィナの体がびくりと固まる。そして、ゆっくりと頷いた。
それは初めてのことだった。彼女が言葉に対して、はっきりと答えを示したのは、
それは初めてのことだった。
長く座っていたアスイェは幼子を抱いたまま立ち上げ、暖炉の隣のテーブルから小さなガラス瓶を手に取った。
瓶の中の血は新鮮で、その赤は石榴の色を思わせた。
アスイェは急いで飲ませはしなかった。
瓶を軽く揺らし、ただ見せる。
幼い子は新しいものを見つけたように、その赤をじっと見つめた。
それ以上の反応はなかった。
アスイェはセラフィナを膝に座らせ、瓶を持たせた。
彼女はぬいぐるみを抱くように、両手で瓶を支える。
飲む動きは遅く、ためらいがちだった。
血は濃く、温かく、そして甘すぎた。
その味と共に、セラフィナは「飢え」を知った。
以前よりも、確かに強く。
目の色がゆるやかに変わっていく。
「……ゆっくり」
アスイェの声は静かだった。
だが、その言葉どおりにするのは難しい。
飢えは茨のように、体の奥へ広がる。
骨の隙間にまで入り込み、小さな牙を伸ばす。
瞳は赤く染まり、歯が瓶の口に当たった。
そのまま、瓶の口を噛んだ。
血は喉をうまく通らなかった。飢えに縛られ、一瞬、混乱に堕ちる。
瓶の中を見つめるしかなく、呼吸は乱れていく。やがてセラフィナは瓶を手放した。カーペットに転がり、音すら立たなかった。
次の瞬間には、彼女はアスイェの胸に逃げ込んでいた。彼に心音はない。それでも、ここに身を寄せれば苦しさは遠のく。
幼い牙はすでに伸びはじめていた。小さくもがき、襟をかすめ、次の瞬間には噛みつこうとしていた。
アスイェはただ髪を撫で、小さな体を抱きとめる。その衝動を、静かに押しとどめながら。
彼は低く笑った。声は穏やかに落ちていく。
「……俺の血飲むのは、まだ早い」
血は喉をうまく通らなかった。飢えに縛られ、一瞬、混乱に堕ちる。
瓶の中を見つめるしかなく、呼吸は乱れていく。やがてセラフィナは瓶を手放した。カーペットに転がり、音すら立たなかった。
次の瞬間には、彼女はアスイェの胸に逃げ込んでいた。彼に心音はない。それでも、ここに身を寄せれば苦しさは遠のく。
幼い牙はすでに伸びはじめていた。小さくもがき、襟をかすめ、次の瞬間には噛みつこうとしていた。
アスイェはただ髪を撫で、小さな体を抱きとめる。その衝動を、静かに押しとどめながら。
彼は低く笑った。声は穏やかに落ちていく。
「……俺の血飲むのは、まだ早い」
幼子の牙はわずかにのぞいていた。それでも、最後まで噛みつくことはなかった。
視線を落とすと、少ししか口にしていない幼子はようやく静まっていた。だがアスイェは知っている。セラフィナの腹はまだ空いている。
その食欲の本能を抑えすぎれば、いずれ害となる。
アスイェはカーペットに捨てられた瓶を拾い上げた。血はまだ温もりを残している。
瓶を握り、口をセラフィナの唇に近づけた。
「……もう少し、飲め」
そう言うと、彼女はゆっくりと首を振った。
セラフィナは他の幼い吸血鬼とは違っていた。人間のように繊細で、自分の抑えられない本能を嫌っていた。
アスイェは手を伸ばす。小さな花を撫でるように。冷たい掌で、セラフィナの目を覆った。
**
幼子の牙はわずかにのぞいていたが、最後赤子は噛みつくことはなかった。
アスイェが視線を落とす、少ししか食べていない幼子はやっと静かになった。
しかしアスイェは知っている。
セラフィナの腹は空いている。食べる本能をこの抑えすぎるとよくない。
アスイェはカーペットに捨てられた瓶を取った。血はまだ温もりを保っている。瓶を持ち直し、彼女に近づけた。
「……もう少し、飲め」
そう言うと、彼女は首をゆっくり振った。
セラフィナは他の幼い吸血鬼と違う――セラフィナは人間のように繊細だった。自分の抑えられない本能を好きではない。
まるで小さな花を撫でているようにアスイェは手を伸ばし、
アスイェは冷たい掌でセラフィナの目を覆った。
「……目を閉じろ。我慢しなくていい」アスイェはそう告げ、ゆっくりと慰める。
セラフィナの体は一瞬こわばったが、暴れることはなかった。瓶を手に取り、子をあやす声で静かに囁く。
「……ほら、口を開けろ」
セラフィナはためらいながらも、やがてゆっくりと口を開いた。血の甘い味が喉を通る。アスイェは片手で瓶を支え、もう一方の手でその瞳を覆いながら、幼子の口に運んでいく。
今はまだ陽の光が眩しい。だが彼は、セラフィナにとって静かな夜を与える存在のようだった。
――ごくり。
ようやくセラフィナの体から強張りが抜け、素直に飲み下す。瓶の中身が空になるまで、彼女は飲み続けた。アスイェはその間、覆っていた手を離さなかった。
血を飲み干した幼子は、疲れ果てたように胸に身を預け、浅い呼吸を繰り返す。「……よくやった」低く褒めると、幼子はたださらに身を寄せてきた。
アスイェは、今の幼子にとってきっと、長旅を続ける船の、海に絶えぬ灯であった。




