第九話:夢と帰属(きぞく)
夢は、「夢」から始まったわけではなかった。あの子の夢は、いつも「抱き上げ」と「置いていく」の繰り返しから始まる。
「抱き上げる」などというやわらかい言葉ではない。正しくは「持ち上げる」。ただし――幸いにも、その子は「大事なもの」だった。だから毎回、「大事に」持ち上げられた。
そこには、鉄錆と消毒液の匂いが混ざっている。幼い女の子は、それが何なのかを知らなかった。ただ、自分がその匂いを「嫌いだ」と知っているだけだった。――それだけは、はっきりしている。
強い光が、頭の上から降ってきた。逃げられない。動けない。叫ぶこともできない。
嫌いなものからは、決して逃げられない。
誰かが、あの子を持ち上げた。その手は冷たかった。指先から、手のひらまで、氷のように冷たい。
あの子は、その人の緊張を感じた。手が、震えている。呼吸が、乱れている。まるで、正体のわからない何か――生き物とも、道具ともつかないものを手のひらに乗せているかのようだった。
あの子は白い布に包まれていた。動けなかった。まるで、自分が最初から死体だったかのように。
泣き声は正常だった。だが――三種の命贄の御滴を、拒んだ。他の液体も、すべて。
「……これ以上、手をかける意味はあるか?」
幼子はその意味を知らなかった。けれど、自分が「捨てられる」ということだけは、なぜか理解していた。戻されるのだ。どこかへ、また。
ただし、“戻される”場所は、毎回違った。ある時は、金属で囲まれた部屋。ある時は、硬く狭い木の箱。
他の子の声は、どこにもなかった。周囲には母の匂いも、誰の気配もなかった。彼女がどれだけ動いても、それに気づく者はいない。
そこにあるのは、寒さと、飢えだけ。
やがて、どれほどの時間が経ったのか――幼子は、自らの「存在」を、ようやく意識しはじめた。成長による目覚めではない。痛みだけが、ずっとそこにあった。
そして、ある時。誰かが、彼女に触れた。
その手の主は、知らない気配を纏っていた。他の誰とも違う。
頬をつねることも、手首を引くことも、しなかった。その動きは軽く、風のようで――
優しかったかどうかは、わからない。
ただ、その指先は、壊れやすい何かに触れるようだった。その気配は、優しさではなく、ただ穏やかだった。あるのは、躊躇いのなさ。
彼は、ただ幼子を一瞥した。それだけだった。
だが、その瞬間――幼子は泣くのを、やめた。
「泣く」とは何か、「見る」とは何か――まだ知らない幼い女の子は、ただ、その一瞬だけ、すべての「嫌」を失っていた。
指先が、唇に触れた。導かれるように、彼女はその指を口に含んだ。
鉄の匂いがした。いつも与えられる、冷えた液体とは違う。それは――あたたかく、新しい血だった。まるで甘い蜜のように、身体の奥に染み込んでいく。
渇きが、止まった。苦しさも、飢えも、涙さえも、必要ではなくなった。
彼女は目を閉じたまま、その手の冷たさを覚えていた。それは冬の気配だった。けれど、今度ばかりは、離れたくないと思った。
気を失うのではなかった。小鳥が、自らの巣に還るように――その気配に包まれながら、深い夢へと沈んでいった。
その夢を、彼女は覚えている。誰かの震える手も、何を告げていたのかわからない声も、彼女は覚えている。だが、今回は違っていた。
その手は、彼女を抱き上げた。そして、静かな片隅に置いた。誰にも邪魔されない、音も届かない、鐘の音すら入らぬ、聖堂の最も深い隅――
そこには、痛みがなかった。
与えられたのは、愛でも優しさでもない。ただ――安全、それだけだった。
***
アスイェがここへ来たのは、何かを探すためではなかった。この聖堂は、遥か昔に破棄され、記録の中からさえ消え落ちていた。
執事は何度も彼を引き止めようとした。理由は――聖堂の構造が老朽していること、冬の冷え込みが常軌を逸していること、そして……あまりにも遠いこと。道中、血の供給源もない。
だがアスイェは、ただ出発した。何も語らず、何も残さず。
吸血種にとって、寒さは恐れるに足らず。長い道のりもまた、越えるべき障壁ではない。
アスイェの旅路は、終始静かだった。一歩、一歩と。音を立てず、確かめるように歩き続けた。
山の麓から、塔の最上へと。風雪を裂きながら、彼の足は止まらなかった。目的の扉の前に至るまで、振り返ることは一度もなかった。
アスイェがここにたどり着いたのは、偶然ではない。彼は夢に導かれて、この地へと至った。
その夢には、音がなかった。微かな光だけが、割れた天窓から差し込み、瓦礫の上に、しばらく留まっていた。アスイェは、その光の中に、ひとり立っていた。鐘の音が十度、聖堂の外で鳴り終えるまで。夢は、徐々に色を帯びていく。黒と灰に染まった建物、崩れかけた聖堂、砕けた窓。それでもアスイェは、歩みを止めなかった。
吸血鬼は寒さを恐れはしない。だが――冬風は、きっと寒いのだろうと、アスイェは思った。
彼が「寒さ」を感じたのは、その赤子の傍らに立ったときだった。
赤子は、揺籠の中に静かに横たわっていた。毛布に包まれ、動かない。まぶたは閉じられ、人間の赤子のように甲高く泣くことも、吸血鬼の幼体のように血にざわめくことも、なかった。
最初、アスイェはそれを「生き物」とは思わなかった。ただ、観察するように眺めていた。呼吸はあった――けれど、それは今にも途切れそうなほど微細だった。
そのとき、執事が部屋へ入ってきた。
「このものは、あらゆる食物を拒みました」「ならば、なぜまだ生きている」「これは、今回の“第一材料”でございますので――」
「……ほう?」
アスイェが再び赤子に視線を戻したとき、気づいた。毛布の端が、湿っている。それを口に咥えていた。――血の匂いがした。
それは、自分の血だ。赤子は、自らを噛んでいたのだ。
信じがたい。滑稽なほどに、あり得ない。だが、アスイェは笑わなかった。黙って手袋を外し、指先をその口元に伸ばした。
赤子は、迷うことなくその指を咥えた。泣き声も止んでいた。
この夢は、終わりではない。何かの始まりだ。その瞬間、アスイェは確信していた。
これは契約だ。逃れられぬ呪い――赤子の帰属が、今ここに刻まれた。この子は、ここに留まる。自分と共に。
赤子は、彼の血を受け入れた。最も純なる、最も古き血を。そしてアスイェが、それを与えた。
ならば、これは契約だ。契約とは、逃れ得ぬ呪い。同時に――この赤子の帰属を意味していた。




