序:狂人·Madman
最初は赤子の泣き声だった。まるで雪地に刻まれた細い跡のように、その泣き声は軽く、すぐに雪の中に溶けた。執事が扉を開けたときには、あの人はすでに揺り籠の前に立ち、無表情のまま、その弱々しい「子ども」を見下ろしていた。その命の目元は赤く、泣き音はもう力がなく、どんどん短くなっている。
「もう三種類の命贄の御滴を拒絶しました」執事が静かに告げる。
「また、このものは全ての人間の血も全て拒絶しました」
純血の吸血鬼は目を伏せ、揺り籠の中の子どもを静かに見つめる。まるで、一つの壊れかけた装置でも確認するように。
「予想以上に、適応していない」
しばしの沈黙ののち、執事が低く言った。「元の人間の家系に戻す案も――」
「不要だ」吸血鬼は執事の声を遮った。彼の声に波はなく、「このものを産んだ人間の母体はもう死亡した。血族はこのものを認めない。あちらでは二年も保たない」
「では……」
吸血鬼は何もは静かにそのもののすぐそばにある、布の端を手にした。この布はまだ清潔で、このものを噛んでいないものだ。
吸血鬼はそっと嗅いだ。微かな血の匂い。
そのものはまだ歯がないが、生きる為自分を傷つけた。
ふと、彼は小さく笑った。まるで、言葉にならない皮肉に気づいたかのように。
「どうやらほんとに何も食べられないようだ」彼はそう呟く。
しかし彼は黒い手袋をはずし自分の指を赤子の口元へ差し出した。
まるで何かをたしかめるように。
その身はかすかにおとを漏らし血の匂いに引かれるように、指をくわえた。
数秒後――泣き声は止んだ。
純血の吸血鬼の低い笑い声は喉の奥から漏れた。
「……全くダメというわけでもないらしい。これは俺の血しか口にしない生き物だ」
この身元が分からない、人でも吸血鬼でもない「赤子」は最も気高く、最も純なる血しか受けつけない。
その身は力尽きたその身は、冬の夜の燃え残りの炉灰のように、小さくなって、長い眠りに沈んだ。
瞼は静かに閉じている。睫毛は雪に押し伏せられた蔦のように頬にはりついた。
この頬はよやくかすかな血の色がさした。今からこの命はやっと「赤子」になった。
赤子はまだ、純血の吸血鬼の指を離せずにいた。
執事はそっと吸血鬼の顔色を窺ったが、男は嫌悪の色も、喜びの色も浮かべていなかった。
赤子に目を向けると、もはや吸血鬼の指を噛んではいないことがわかる。
この幼きものは、ただその指先を通して吸血鬼の存在を確かめていただけなのだ。
まるで子どもそのもののような、あるいは本能に従った動物の行動のようだった。
「この子は、長くは持たないでしょう」
執事は、夕刻に蝋燭の芯を替えながら、低く呟いた。
「食事もせず、匂いだけを頼りにしている。これでは、変異の条件すら満たせない」
吸血鬼は何も言えず、ただ赤子を抱き上げ、緩んだ白布を無言で整え、その身を静かに包み直した。
冬の寒さはまだ去らず、古い教会の窓の隙間から吹き込む風が、壁に染みついた灰色の痕へと入り込み、それはまるで乾きかけた血痕のように、長く垂れ流れていた。
その夜、吸血鬼は去らず。これ、初めてにして、ただ一度――石の座より、一夜たりとも微動だにせず。赤子は吸血鬼のそばで身を丸め、最も深い眠りについていた。夢の中、ごく稀に寝返りを打ち、そのたびに彼の外套の裾を掴み、かすかに喉を鳴らす。まるで、まだ傍にいることを確かめるかのように。
この子は彼が離れることを怯えている。
三日目の朝、陽の光が差し、雪は少し溶けていた。アスエは身をかがめて赤子を見つめる。その時、彼の右手が赤子の手に一本の細い傷を見つけた。傷というほどではないが、その細い線が赤子の手にあって目立つ。どうやら赤子がうっかり何かにかすっただけのようで、血は出ていなかった。
彼は眉をひそめた。この子の肌は、血管が見えるほど白く、透明さえ感じる肌であるにもかかわらず、吸血鬼としての温度反応は一向に現れない。
この子の成長は遅い、成長だけではない、覚醒、凝血、変異、すべてが遅い。
まるで何かになることを拒んでいるように遅い。
「共生者は身体が弱く、多くは早死にするものです。」執事は静かに言った。「古い書物にも記されていました――幼体が寄生に成功する例は、元より稀です。生き残れぬものは、そもそも生まれる時を誤ったのでしょう。」
「神学書にそう記されているに過ぎない」アスイェは淡々とそう告げた。
「我々の血はそう言ってない」
アスイェは赤子を抱き上げた。これはアスイェが初めて両腕でこの柔らかく静かな命を抱いた瞬間だった。
赤子は目覚めていないが、安心するように呼吸がもっと静かて、深くなった。
彼は部屋の奥にある盥洗室へ向かった。扉の後ろにある石の棚にはかつて彼が常に身につけていた銀器と洗礼用の布が鍵付きで収められている。温かい水を使って子の小さな指の節についた乾いた汚れを、指先でそっと拭い去った。自らの腕に付けていた銀の留め具に手をかけ、それを外して、子の掛け布の裏に掛けた。その銀の留め具は、血族の紋章が刻まれた唯一の飾り物であり、長い年月、彼の唯一の持ち物であった。
「吸血鬼になりたくないなら、噛む真似をするな」
赤子は答えるようにただアスイェの裾を掴め直した。
この子がこの数日に唯一の仕草、それはただ掴むことだけだった。
【記録・七日目】
異常幼体、未だ死亡せず。
食わず、噛まず、喋らず──されど名に応じる。
兆しなし。寄生反応、皆無。
アスイェ閣下、三晩続けて離席せず。膝上。沈黙。夜明けまで。
――狂人
彼は本来長く留まるつもりはなかった。この一帯は、旧聖堂が廃された後、育児に失敗した個体の収容場として使われている。
石の窓は閉ざされ、時折吹き込む風にあおられて、蝋燭の火が揺れる。壁に描かれた古びた聖痕は、まるで乾きかけた血痕のように見える。
この子もまた、「育成に失敗した個体」の一つとされた。
実母は難産の末に死亡し、体温は長らく上昇せず、寄生反応も確認されなかった。
古い規定では、このような個体は下層の血族に預けられ、三日以内に「噛む」反応を示さなければ、「自然淘汰」と見なされ、処置される。
明朝、お戻りいただけます。初日に水を届けた執事がそう言った。「専用車をご用意しました。あとの処理は、我々にお任せを。」彼は石の座の後ろに立ったまま、身じろぎひとつしなかった。夜の闇は深く、窓格子の影がその顔を断ち切るように落ちる。睫毛の陰が、蝋燭の縁で蛾の羽のように揺れていた。
「不要だ。」
「閣下?」執事が一瞬だけ戸惑いの色を見せる。
「この部屋に、あれを置いておけ。」本の一頁をめくるような、乾いた声で彼は言った。「もう数日、様子を見る。」
その声音からは、他の感情を読み取ることはできなかった。
彼は収容場に留まった。彼はアスイェ。血族の歴史において、神に最も近い純血の存在とされる者。彼の意図を問える者はおらず、彼の行動を咎めることも誰にもできなかった。彼がこの地にとどまる理由を理解する者もまた、いなかった。
アスイェは赤子を抱くこともせず、触れることすらなかった。
ただアスイェは、毎日石の座に腰掛け、夜番のように眠る幼体を見守っていた。静かに眠るその時間のすべてを、ただ見るだけ。まるで、何かが変わるのを待っているように。何か新しい「兆し」が現れるのを、じっと待っているように。
三日目の未明。布を取り替えに来た執事が、思わず口を開いた。「……閣下。もし噛みつきをご心配であれば、拘束することも可能です」「この者には本能がない。牙もない」「それでは……何をお待ちなのですか?」
アスイェは答えなかった。
ただ、部屋を出る前に一度だけ、静かにその無音の命を振り返った。その眼差しには、慈しみも、警戒も、躊躇もなかった。好奇心ですら、ない。
彼は、冷たい岩が雨の雫を受け止めるように──その雫を避けもせず、ただ在るものとして。
そして、告げた──
「死ぬべきものが、生きている。」
「……だから、その死に様を見てやる」