第1章 マイ・エンジェルボーイ 8
あたしは自宅まで、今日だけはタクシーで帰ろうかとも思ったが、折角、豪遊が4,900円で済んだのだ。
それにこれから対策費が必要に成るから、無駄遣いをしている場合では無い。
公共交通機関を使って自宅に戻ると、あたしは早速、ヤーイン財閥をググってみた。
ヤーイン財閥は、元々、中国広東省から1940年代にマレーシアに渡った古い華僑集団で、クアラルンプールを中心に東南アジア全域で一財を成したらしい。
う~ん、まあ名前からして華僑だろうとは思っていたけど・・・。
その後、幅広い事業展開で華僑の中でも大財閥の一角を形成しており、現在は東南アジアだけではなくアメリカの政財界との繋がりも深い。
「アメリカの政財界との繋がりの中で、スグルとの関係も生じたのかな?」
それにしても、大財閥がスグルに頭を下げて頼み事をするとは!
あたしの中では、華僑は大金持ちでも着飾ったり、高級品を身に着けたりせず、お金が有る事を周囲にアピールしないと言うイメージだった。
スグルは嫌そうだったけど彼らと会うと言う事は、そうした奥ゆかしい面がスグルの趣味と合うのかも知れなかった。
一方で、アクション映画などでは華僑はダーティな集団と言う設定で描かれる事も多い。
スグルは今日が初対面ながら、その言動から謎多き「小さな天使」だとあたしは思った。
「スグルは、天使かも知れないけれど、僅か15年間の人生で化け物の様な連中と互角以上に渡り合える才覚を一体何処で身に付けたのかしら?
「まあいいわ。今度スグルに会ったら、本人に直接訊いてみよう!」
そんな事をあれこれ考えていると、あたしは急に眠く成ってきた。
何時もは平凡そのものの生活を送っているあたしに取って、今日は驚きが連続する長い一日だったもんね。
お風呂は明日の朝にでも入る事にしよう!
わたしはパジャマに着替える事も無く、「淑女の品格」を枕元に置くと、直ぐに深い眠りに就いた。
「ふわーっ、昨夜は良く寝た!あれ?今日もまた凄い快晴じゃん!」
あたしは朝シャンして、食パンに薄切りハムとスライスチーズを挟んだ朝食を済ませると、桂川家とスグル対策の準備に取り掛かろうとした。
だが急に、あたしの中にインスピレーションが湧いて、対策は街中を散策した後に回す事にした。
そうだ。昨日は地下鉄駅へと続くあの公園の道で、幸運なハプニングが起きたのだから、今日もあの道を通って街へ行こう!
あたしは自宅のアパートから公園の近くまでスキップをしながら進んだ。
「ヘイ、そこの可愛いミサトさん!この車に乗ってかない?近くまでだけど送るよ」
木立の陰から聞き覚えが有る声と共に、スグルが姿を見せた。
「わお!僕ちゃん・・・いや、スグルさんじゃない?どうしてまたここに?」
キラキラと輝く朝日がスグルの高貴な横顔に反射した。
これぞ正しく天使の横顔!
ここで、二日連続でスグルに会えるなんて!
今日も又、超ラッキーな一日に成る予感が、あたしの脳裏を掠めた。
安物だけど昨日とは違う服を着て来た自分を、あたしは褒め称えた。
その一方で、あたしは9歳も年下の少年に、胸のトキメキを覚えている事に狼狽した。
それでも直ぐに気を取り直すと、もしスグルが天使では無く悪魔だとしたら、それはきっと高級悪魔しかあり得ないとあたしは結論付けた。
低級悪魔や中級悪魔では、これだけの清潔感を演技出来る筈が無いからだった。
あたしから、高級悪魔と疑われている事を知らないスグルは、
「ミサトさん、昨日はゴメンね。急用が入っちゃって」
と、あたしに悪びれずに詫びた。
「それは全く問題無いんだけどさ・・・あたしも昨日は刺激的で色々と楽しめたし」
「そのお詫びに今日は、ミサトさんからラーメンを奢って貰おうと思ってここで待ってたんだ」
「それって、日本語の使い方、間違ってるよね?普通、お詫びする方が奢るんじゃ?」
「僕は以前から、一度で良いから、ラーメン屋って言う所で、ラーメンを食べて見たいと思ってたんだ!」
「そ、そうなの?」
「さあ、ミサトさん、この車に乗って!一緒に行こうよ、ラーメン屋!一緒に食べるぞ、ラーメン!」
「凄く張り切ってる所を何なんだけど、スグルさんが乗ってと言ってる車って、この自転車の事だよね」
「そうだけど?」
やはりスグルは天使だ!悪魔がこんな可愛いらしい発想をする訳が無い!
「スグルさん、日本じゃ自転車の二人乗りは禁止なの!」
「そうなの?」
あたしはスグルに「そうなのじゃ!」と断言した。
「じゃあ、押して行くしか無いね。丁度良い運動に成りそうだし」
「ところでこの自転車、どこで調達したの?」
「ここの近くのレンタルサイクルステーションだけど、ねえ、聞いて!僕がミサトさんと自転車でデートしたいって言ったら、爺やも橋本さんも凄く協力的だったんだ!」
昨日の帰りの車の中で、爺やにはセバちゃんと命名した事、橋本さんにはあたしが車から降りる時に挨拶した事が好印象を与えたのか?
「それからミサトさん、僕の事はスグルで良いよ。ミサトさんの方がきっと僕より年上の筈だから。そうだよね?ミサトさんの方が僕より少しだけ年上だよね?」
少しだけ年上だよね?くーっ、ガキの癖に泣かせる事を!
「よし、分かった。今日はお姉さんがスグルを、庶民生活体験ツアーに連れて行ってあげる!さあ、自転車をステーションに戻しに行きましょう!」
「わーい!やっぱりミサトさんは最高!」
あたしはスグルと一緒に自転車を戻すと、庶民生活体験ツアーにはドレスコードが有るの!と言って、タクシーを呼び止めるとスグルをジーンズショップに連れて行った。
「スグル、これなんかどう?」
「おおー、アメリカの少年達が履いてるボトムっぽい!僕、こんなのを一度は履いて見たかったんだ!」
アメリカ人が履いてるボトムっぽいって、これはリーバイ・ストラウスのインポート物だからアメリカ製なんだけど・・・
「スグルは一体どんな格好で学校に通ってたの?」
「僕はほとんど学校には通っていないから。稀に行く時は大体、昨日みたいな服装かな?」
「そんな乗馬服にたいな恰好で学校に通ってたんだ」
「僕の生家はワイオミング州の牧場だからね。馬には乗れなきゃと思ってロンドン郊外のジョッキー養成所で本格的な乗馬の訓練を受けたんだ。僕が持ってるアウトドアの服はその時作った乗馬服だけかな?外出時はスーツかジャケットだから」
富豪で有るが故のアウトドア服飾貧困か?
「それから僕は毎年、背が伸びるから帽子以外は爺やが見繕って呉れる物を着ていたし。でも日本に来る前に外出着を何点か作り直してて良かったよ。その服を持っていたから散歩がしたく成って、そのお陰でミサトさんと公園で出会えた訳だしね」
スグルの恰好が、昨日とアイテム的に異なるのは、今日はノーネクタイで、靴がデッキシューズだと言う事くらいか?
そのデッキシューズも、フランスのパラブーツ社のバース ヴォイルレザーだもんね。
きっとスグルの専属スタイリストは欧州人なのだろう。
「はい、インナーはこれで、シャツはこれ!キャップはこれで、ソックスとベルト、それからシューズはこれね!」
スグルは試着を済ませて、それまで着ていた服を紙袋に詰めると、そこには立派なヤンキー少年が誕生していた。
「Oh、この僕がヤンキーみたいな恰好に成れるなんて!アメリカじゃ監視の目が厳し過ぎてとても不自由なんだ」
お金持ちにも悩みが有る事を知って、あたしは少しばかり、スグルとの付き合いに気後れしないで済みそうな気分に成った。
スグルはその新しい服装を着て、あたしの眼前で3種類のターンを決めてみせた。
アウトドア服飾貧困者の割には、軽やかなステップだった。
まあ、あたしの方が6年間ものデスクワーク漬けで、俊敏さが衰えているだけなのかも知れなかったが。
スグルは頭抜けた美貌とスタイルの持ち主だから、何を着ても似合わない筈が無かったが、この格好もやけに素敵だった。
眩しいものは、やはり眩しい。
あたしには、そう素直に認めるしかなかった。
どうせ昨日の20万円は桂川家から頂戴した物だし、ここのジーンズショップでの会計はあたしがする積りでいた。
レジーでクレジットカードを出そうとしたら、
「ミサトさん、自分の物は自分で買うから、有難う。今日奢って貰いたいのはラーメンだから」
そう言うとスグルはダイナースクラブプレミアムブラックカードを差し出した。
スグルは富豪だからそれは当たり前の事なのだが、あたしは自分のカードを出さなくて良かったと心底思った。
「ランチだったら、奢って貰った人に有難うって言えるでしょう?僕も一度は、そう言って見たかったから・・・」
スグルの周囲の人々は、スグルに奢るなど恐れ多いのだろうか?
君には誰か庶民の友人はいないのか?
それから、あたしは会社の近くにある「旨いラーメン屋」にスグルを案内した。
関東風の中華そばならスグルの口にも合いそうだったが、ここは濃厚豚骨スープの博多ラーメンでスグルからギブアップを奪って、大人の貫禄を示す作戦だった。
人気店だと待ち時間が長いのだが、ここのラーメン屋はオフィス街に立地している為、土曜、日曜は待たずに入店が出来る。
あたしが週に一度は顔を出すので店主もあたしの顔を見知ってはいたが、会社の社員との鉢合わせする事を嫌ってここでは呑んだ事がないので、店主や従業員と話をした事は無かった。
「いらっしゃい、今日は弟さんとご一緒ですか?」
「ええ、まあ」
今日は暇だったからだろう。
店主の方からあたしに声を掛けて来た。
「いやー、弟さんは若いがイケメンですね。その内、人気俳優としてテレビで見掛けるかもですね?今の内にサインを貰って置こうかな?注文が決まったら声を掛けて下さいね」
スグル程の富豪が俳優なんかに成るものか!
一方、スグルの方は写真付きのメニューを物珍しそうに眺めていた。
「僕、分かんないや!注文はお姉さんのお薦めで」
おお、麗しき姉弟愛!
「それじゃ、弟には豚骨ラーメンの硬さフツーで、あたしの方はバリ硬を半チャーハンと焼き餃子とのセットで!トッピングは味付け卵、それから生ビールを一杯!お願いします」
昨日、桂川邸でスグルがグラスに入った野菜スティックをタルタルソースで食べた事を覚えていたから、卵は大丈夫だと判断していた。
「僕にも同じ物を。生ビール1杯!」
「えっ?」
「冗談よ、冗談!弟はジョ-クが大好きなもので・・・気分だけでも一緒にしてあげないと後が面倒なので、ノンアルコールビールをジョッキに注いで貰えますか?」
「あ、ああ」
店主は笑いながら、従業員に目配りした。
「思いがけない再開に乾杯!」
本当はそう叫びたかったのだが、姉弟で思いがけない再開と言うのも不自然な話だし、スグルはあたしを待ち伏せしていた訳だから、取り敢えずあたしはジョッキを顎の下まで持ち上げると、スグルに眼で乾杯と言った。
スグルも同じように、ノンアルコールビールのジョッキを顎の位置に持ってくると、やはりその眼であたしに乾杯した。
スグルは場の空気が読める天使なのだ!