第1章 マイ・エンジェルボーイ 7
あたしはのし袋をバッグに仕舞うと、何事も無かった様な済ました顔で化粧室を後にした。
20万円と言えば、あたしが会社から貰う月給の手取り相当額だ。
勿論、そんな大金をはたいてディナーを食べる様なあたしでは無かったが、今日はスグルとの「世紀の運命的出会い」を記念して、祝杯位は上げないとバチが当たりそうな気もした。
ランチが豪華だったので今は全く空腹感が無かったが、夕方に成れば少しは食べれそうなので、今夜は居酒屋のカウンターで豪勢に呑む事にした。
元々、あたしは仲間内で群れるのが苦手で、独りで居酒屋のカウンターで呑む事には全く抵抗感が無かった。
実際、入社しても、2年目からは忘年会や送別会の様な公式の宴席だけ参加して、オフの飲み会には一切顔を出していない。
上司や同僚達も、今では誰もあたしを誘って来ない。
あたしは皆から、超が付く「付き合いが悪い女」だと信じられているのだ。
そしてその事は、あたしに取ってこの上も無く好都合な状況だった。
社員には有名大学を卒業した者もいるのだが、飲み会の席でインテリぶった物言いをする奴なんか、あたしには単なる「マヌケ」にしか見え無いので、彼らと真顔で話をする気には到底成れない。
居酒屋が開店するまでには未だ時間が有ったので、あたしは古着屋と古物ショップを覗いてみる事にした。
今日は出掛けている途中でナンパされたから服装は気に成らなかったが、次回、お誘いを受けた時にはそれなりの服装で出向く必要が有る。
自慢じゃ無いが桂川家に着て行ける服など、あたしは持っていなかった。
あたしは先ず、JR渋谷駅から原宿方面に向かって程近い場所に有る古着ショップに立ち寄ってみた。
勿論、今日、古着や古物を買う積りはあたしには更々無い。
明日は日曜日で時間が有るから、「スグル攻略」のコンセプトと戦略をしっかりと定めてから、それに見合う服や小物類をネットで手に入れる手筈だったからだ。
場合によっては、入社以来、賞与が支給される度にその半分を貯金して来た預金も、その半額を引き下ろして、今日の20万円と合わせて対策費に充てる覚悟さえ出来掛かっていた。
4軒目に訪れた、ブランド物を専門に扱っている有名な大手中古ショップで「エルメスのエールバッグ」を見付けて、わたしは急に夢遊病者の様にふらふらとそのバックを買い求める行動に出た。
そのバックには、「ジップ PM トワルオフィシエ カクタス バックパック D刻印(2017年製)」と表示されていた。
ダークグレーと薄いグリーンのコンビネーションで、使用感はほぼゼロに近い。
あたし位の年齢から30歳前半までの女性なら、誰でも清楚で上品な印象を与えて呉れそうな逸品だ!
それが税込みで11万円なんて、信じらんない!
買う事を決めた人は、その言い訳は、後から幾らでも思い付く物らしい。
今日はスグルに出会えた、とんでも無くラッキーな日だから、神様があたしにこの超格安のバッグにも出会わせて呉れたのね。
スグルに出会えた記念に、高級バックを買ったってバチは当たら無いわよ。
だって中古だし!
「スグル攻略」のコンセプトと戦略を定める筈が、その間も無く、あたしは購入する旨を店員に告げて、バッグの刻印等を調べさせて貰った。
「この商品は昨日入荷したばかりの訳有りの逸品です。若し私が女性だったら自分で買いたい位です。お客様はとてもお目が高いですね」
営業トークだと分かってはいたが、その男性店員があたしに商品を手渡す時、一寸惜しそうな表情を見せた事をあたしは見逃さなかった。
若しかしたら、彼の給料日までそのバッグが売れ残っていたら、自分の彼女にプレゼントする積りだったのかも知れない。
何れにしても、あたしは生まれて初めて高級ブランドバッグを手に入れたのだった。
その高揚感は、あたしの中でなかなか醒めなかった。
「スグル攻略」のコンセプトと戦略を定める前に衝動買いをしてしまった自分に対して、罪悪感が有った訳では無いが、今後に役立つ情報が得られればと、あたしは本屋に立ち寄った。
立ち寄った本屋は莫大な数の書籍を販売していて、簡単には目的の本を捜し出せそうも無かった。
まさか店員に、15歳の男性を落とす為の攻略本を置いて有りますか?とは聞けない。
それでも、あちこちの棚を見歩いている内に、「淑女の品格」と言う題名の本を見付けた。
あたしは迷わずその本を購入した。
それはあたしに取っては、読む為の本では無く、枕元に置いて自分が淑女だと自身に自己催眠をかける為の秘密のグッズに成る予定の物だった。
本屋を出ると、外は既に日が暮れ始めていた。
時計を見れば、開店している居酒屋が有っても可笑しくない時間帯に成っていた。
よし!今夜は居酒屋で豪遊するぞ!
狭いお店で女が独りで呑んでいると目立つから、店内が広い大衆割烹風の居酒屋に入った。
お店は開店したばかりで客はまだ疎らだった。
あたしはカウンターの一番隅の席に座ると生ビールと刺身の豪華五点盛りを注文した。
客が少ない為、注文した品は直ぐにあたしの元に運ばれてきた。
「あたしの、奇跡の様な運命的な出会いに、乾杯!!!」
くーっ、生ビールはやっぱり旨い!生きてて良かった!
刺身を食べると、やはり今度は日本酒が欲しく成った。
何時もならここで、ホッピーの白セットを注文する所だが、今日は豪遊する日なのだ!
あたしは、思い切って石川県の特別純米の地酒を注文した。
それから色々と飲んで食べた後、レジーで流石にのし袋からお金を取り出す訳にも行かないので、財布に入っていた虎の子の1万円札で料金を支払った。
「有難うございました」
女性の店員が、レジーデスクのレザー皿にお釣りを乗せてあたしに返した。
お釣りの金額は一目見ただけで、5,100円だと分かった。
あたしの豪遊は、幾ら頑張っても4,900円止まりなのだった。
あたしは嬉しい様な、悲しい様な複雑な気持ちでその居酒屋を後にした。