第1章 マイ・エンジェルボーイ 6
まだ陽は落ちていないし、このまま自宅に帰るのも「世紀の運命的な出会い」が有った日にしては味気が無いし・・・
今日は、ウィンドウショッピングを何処どこでするかも決めていなかった。
取り敢あえず渋谷にでも送って貰おうかな?
「橋本さん、申し訳有りませんが、渋谷の道玄坂近くに送って貰えますか?寄りたいお店が有るので」
「かしこまりました。渋谷付近に参りましたら、またお停めする場所をお申し付け下さい」
「分かりました。宜しくお願いします」
黒塗りのベンツが少しばかり走るスピードを上げた。
それからあたしは、爺やのスマホを貸して貰うと「LINE」をダウンロードして、あたしのLINEと繋げた。
爺やにLINEの使い方を簡単に説明した後、あたしはLINEの練習だと言って、爺やと相互に挨拶程度の遣やり取りをした。
爺やはその度に、「これは面妖な!」とか「これは便利な!」とか、いちいち感想を口にした。
セキュリティのレベルさえ下げれば、文章や会話のやり取りが超簡単だと言う事を爺やは知らなかったのだろう。
あたしとLINEが繋がった事に、爺やが余りに嬉しそうな顔をするものだから、つい「セバちゃん、嬉しい?」とあたしは聞いてしまった。
桂川家の名老執事に対して、しかも今日が初対面だと言うのに「セバちゃん、嬉しい?」は、流石に馴れ馴れし過ぎたか?
「ええ、ええ、このセバスチャン・ジンパッチャン。ミサト様とLINEなる物で繋がりました事がこれ程嬉しく感じられるとは!20歳は若返った様な気分です」
何だ、セーフもセーフ、余裕でセーフだったじゃん!
「セバちゃんはさあ、元々、気持ちは相当若々しいと思うよ!お仕事柄でそれが表面に出し難にくく成ってるだけかと?」
「ほほほ、左様でございましょうか?ミサト様のお言葉は説得力がございます故ゆえ、私めもその気に成ってしまいます」
あたしが爺やの事を「セバちゃん」と呼ぶ度に、運転手の橋本が驚いた様子でバックミラー越しにあたしをチラ見したが、あたしと視線が合うと慌てて前を向いた。
「実は今夜は、ミサト様のご了解さえ賜れれば、夕食も共にしたいとご主人様は申されていたのですが、急な来客が有りましてそれは叶いませんでした」
爺やはそう言うと、自分のバックから簡素な作りの「のし袋」を取り出した。
「差し出がましい様で本当に気が引けてしまうのですが、これで本日のご夕食でもお摂とり戴けると幸いでございます」
爺やはそののし袋をあたしに差し出した。
「それはいけませんわ。わたくしは今日、豪華なランチまでご馳走に成りましたので・・・」
あたしはのし袋を見た途端、それまでの馴れ馴れしい口調は、淑女っぽい言葉遣いに自動的に転換されていた。
「ご主人様からは、呉れぐれもミサト様がご負担をお感じに成られ無い金額をお包みせよときつく言われておりますので、ご心配には及びません」
「困りますわ。そのようなご配慮までされましては・・・」
その言葉を添えて、のし袋を爺やに返そうとしたあたしの右手が、お札の重みを感じて、反射的にそののし袋を手前に引いてしまった。
馬鹿、馬鹿、何て事をすんのよ!あたしの右手!
「セバちゃんが叱られる所を、あたしは見たくないから・・・仕方が無いのでこれは受け取って置きますね」
あたしは慌ててフォローしたが、流石に今回は余裕でセーフでは無かった筈だ。
良くて同時セーフ!
「お、おおー!やはりミサト様はお優しい」
セバちゃんは感激した表情に成った。
のし袋を受け取ったあたしを見て、爺やのニコニコ度が大いに増したのだから、今回の件もきっとセーフだったのだろう。
「今日は何から何まで有難うございました。最高に素敵な半日を過ごす事が出来ました。お帰りに成られたらスグルさんにも宜しくお伝え下さいませ。橋本さんにもお世話をお掛けしました」
あたしが橋本にまでお礼を言ったので、後部座席のドアを開けて頭を下げていた橋本が、「ハハッ!」と言って更に深く頭を下げた。
「わたくしは、本日はこれにて失礼致します。皆様、ごきげんよう!」
あたしは、我ながら自分の自動変身能力の高さに感心していた。
あたしにこんな能力が備わっていたなんて!
自動変身が解けた今、もう一度、同じ事を言えと言われたら何回舌を噛むか分かった物じゃない。
あたしは、黒塗りのベンツがあたしから遠ざかると、近くの服飾やインテリアのショップがテナントとして入っているビルに飛び込んだ。
化粧室は何処だ?
有った!
あたしは、受け取ったのし袋に、一体幾らが包まれているのかを知りたい誘惑に呆気あっけなく負けてしまったのだ。
と言うより、あたしはその誘惑と戦う意志を元々持っていなかったに違いない。
「ギャオー、20万円!」
あたしは用を足しながら、のし袋に入っていたお札の枚数を数えると思わずそう叫んでしまった。
もし、隣のトイレットブースに人が居たらその人は激しく、そうでは無い化粧室にいた人はそれ成りに強く、あたしの野太い叫び声に驚いた筈だ。
「20万円のディナーなんか食べちゃったら、口が腫れて、一か月はまともに喋れないよー!」