第1章 マイ・エンジェルボーイ 4
「僕は彼女に大学への進学を奨めたんだけど、本人がどうしても当家でメイドをしたいと言って聞かないものだから」
「そう?でもあの娘は学生より、メイドの方が似合ってるわ!」
「そうかな?」
「そうよ!」
あたしは、先刻の女の子をスグルの優秀な見張り番にして、色々な情報を得る事に決めていた。
それがもし学生に成っちゃったら、学校とかに行くからスグルの見張りに専念出来無いじゃん!
出会ってまだ3時間も経っていないのに、そして次回、また会えるのかも分からない中で、あたしはちゃっかりと桂川家に食い込むべく準備を始めていた。
メインホールの中に入ると、既に音合わせを終えた男性カルテットがステージの上にスタンバイしていた。
そのホールは、30名程度の結婚披露宴なら余裕で催す事が出来る広さだった。
あたしが思った通り弦楽四重奏のカルテットだったが、ヴィオラの担当があたし達に最初に挨拶した。
きっとこのカルテットのリーダーなのだろう。
クラシック音楽に詳しくないあたしは、勝手に第一ヴァイオリンの人がリーダーだと先入観を持っていたが、実際は違うらしい。
あたしとスグルがテーブルの近くまで来ると、カルテットの残りの3人もあたし達に近づいて来て自己紹介をした。
彼らは全員が、日本国際フィルハーモニー交響楽団のメンバーらしかったが、あたしは彼らの自己紹介をほとんど聞いていなかった。
スグルがあたしの事を、どの様に紹介するのかだけに意識を集中していたからだ。
「皆さんにご紹介しましょう。彼女の名前はミサトさん、僕の特別な人です」
4人は、揃ってオーッと驚きの声を上げた。
しかし、やはり彼らは生粋の音楽家なので、あたしたちの関係を更に訊ねるような野暮な真似はしなかった。
あたしはスグルの特別な人!あたしの心の中に、またヒヒヒと下品に笑うあたしがいたが、あたし達2人は今日出会ったばかりなのだ。
それは単に、スグルのリップサービスかジョークの類に過ぎないだろう。
余り期待し過ぎて調子をコクと、あんた、自分で墓穴を掘るよ!
あたしの中の魔女のかけらがあたしにそう忠告した。
フン、そんな事はちゃんと分かっているわよ!
やがて、静かな曲調のクラシック音楽の演奏が始まった。
このただっ広いホールで、演奏を聴くのはあたしとスグルの2人だけだった。
何と言う贅沢な時間!
爺やがあたしに近づいて訊いた、
「お飲み物は如何致しましょうか?ミサト様はもう成人式は済ませれているのですよね」
あたしは、こくんと頷いた。
終わったわよそんな物!4年も前に!あっ、今は18歳から成人だから、あたしは成人歴6年の、ベテランとまでは言わないけれど、ソレなりに成熟している女なのよ!
「それではアルコールをお持ち致しましょう。お勧めはワイン、シャンペン、甘めのカクテルですが・・・」
「それじゃ、お言葉に甘えてシャンペンをお願いします」
「かしこまりました」
爺やは背が高い男に、一言、二言、言葉を交わした。
恐らくこの男が、ソムリエの役も仰せつかっているのだろう。
この館だったらワインは当然、最上級の高級ワインが出されるだろう。
あたしは、それをついついガブ飲みしてしまいそうで、ワインは敬遠したのだった。
カクテルなんぞは、少し酔えば、一気にクィクィと飲み干してしまいそうだった。
結局、消去法であたしはシャンパンをお願いしたのだ。
「ミサトさん、僕達は今日が初対面だから、お互いの身の上話はナシにしましょう」
「ええ、そうしましょう」
今回はナシって事は、次回、会う事が有るって言う文脈だよね。
それにあたしは「特別な人」らしいから。
あたしの心の奥底の魔女のかけらが、再びヒヒヒと笑った。
流石に3回もヒヒヒが出たので、あたしは少し心配に成って或る事を確かめる為に席を立った。
演奏中で、食前酒が未だ来ていなかったので、緊張感が頂点に達した事も有って、あたしはトイレとその或る事の確認を同時に済ませる事にした。
「化粧室はこちらでございます、ミサト様。私めがご案内致します」
爺やに案内されて化粧室に向かう途中、厨房の中が見えたが、そこには4人の料理人が調理を行っていた。
この館には、住み込み以外の人もいるのか?
「こちらでございます。どうぞごゆっくり」
爺やはそう言うとホールの方に踵を返した。
あたしは用を済ますと、鏡を覗き込んでその或る事を確認した。
「あちゃ~!やっぱりか?ヤバっ!」
あたしの瞳は、獲物を見つけた獰猛な女豹の様な眼に成っていたのだ。
あたしは自分の心の中の「魔女のかけら」に、「コラ、テメェ!余り勝手をコクんじゃ無いよ!」と脅しを掛けた。
あたしの中の「魔女のかけら」は、そのセコい性格をベースに悪知恵だけは働くのだが、あたしの恐喝には極端に弱かった。
あたしの恫喝で「魔女のかけら」は去って、瞳が何時もの状態に戻った事を化粧室の鏡の前で確認すると、あたしはゆっくりとホールの自席に戻った。
やがて、オードブル、スープ、メインディシュとランチが進行して行った。
どの料理も、当然のように、普段のあたしの口に入る事は無い美味しい物ばかりだった。
あたしは良くぞ、スグルに会う前にマックのエグチセットを食べていなかった自分を褒めた。
その頃には、カルテットの方も食事の邪魔をしないようにと言う配慮からか、あたし達に挨拶する事も無く、何時の間にか楽器と共にバックステージに消えていた。
スグルが身の上話はナシだと決めていたので、あたし達は花の話や、星や星座の話、古代の文明や伝説など、凡そあたしには似つかわしくない話題を語り合った。
語り合ったと言っても、そのほとんどはスグルが話して、あたしが聞き手に回ると言うパターンだったが。
そして長いランチが終わった時には、あたしは5杯目のシャンペンを飲み干していた。
それから腹ごなしと言う訳でも無いが、庭園を散歩した後、スグルが書庫と美術品や工芸品が多く飾られている美術館か博物館の一角を思わせる部屋にあたしを案内して呉れた。
これらの部屋は、ゲストルームから庭園を挟んだ反対側のゴシック調の建物の中に有った。
あたしは、その建物の中に入った時、理由も無く、ここには最上級クラスの魔女が棲んでいるかも知れないと感じた。
そして最後に、あたしが一番気に成っていた母屋の展望台をスグルは案内して呉れた。
その展望台の屋根には大きな鈴が付いていたから、鐘撞堂かも?と思っていたあたしの見立ては全くのハズレと言う訳では無かった。
実際、桂川家の記念日には、ここでこの鈴が鳴らされるそうだ。
あたし達が、館の探索を終えてホールに戻った時、秘書然とした例の女がスグルに耳打ちをする仕草をした。
だが、この家では小声で耳打ちをしなければ成らない話などは、きっと無いのだろう。
耳打ちしている秘書然女の声は大きく、部屋が静かな事もあって、あたしは話の内容をほとんど聞く事が出来た。
「ご主人様、実はヤーイン財閥日本支社の支社長様が、玄関の前でお待ちでございます」
「ヤーイン財閥が?今度はまた、何の騒動を持って来たんだ?」
「ご主人様に至急ご判断を仰ぎたい事があると仰っておられます。誰で有ってもご主人様のアポイントは簡単には取れないので、こうして失礼を顧みず、玄関先で待たせて戴く事にしたそうです」
「僕は、ミサトさんと過ごす貴重な時間を失いたくは無いのだが、玄関先まで来てしまった物は仕方が無い。先方には10分後に会うと伝えて呉れ」
「かしこまりました」
秘書然女は、スグルに一礼すると玄関の方に向かった。
「ミサトさん、僕さ、一寸ばかり、野暮用が入っちゃったんだ。まあ、元々、僕がミサトさんからOKを貰っているのはランチだけだからね。残念だけど家の者に自宅まで送らせるね」
あたしは、通行人に訊けば地下鉄の駅やバス停への道を教えて呉れるから独りで大丈夫、と言いそうになった。
しかし良く考えて見ると、あたし達はお互いの連絡手段を未だ確保していなっかたのだ。
次回も公園で出会うとすれば、それは何時の事に成るか定かでは無い。
まさかこの場で、アンタの携帯番号を教えなさいよ!と言うのも端無いし。
それに、もしスグルから携帯番号は教えないと言われてしまったら、それで一巻の終わりだ。
それよりここは、あたしを送って呉れる人物からスグルの携帯番号を聞き出す方が賢明ね。
最低限、その人と今後も連絡が取れるようにして置かなければ!
「それじゃ、よろしくお願いします」
「お客様、お車のご用意が出来ました」
メイドの柳澤が、あたしにそう伝えた。
「ミサトさん、今日は凄く楽しかったよ。次回も僕に沢山嘘をついて、ディナーまで一緒にいて呉れると嬉しいな」
スグルの言葉で、あたしは少なく共、次回またスグルに逢える機会は有りそうだと確信した。
「あたしの方こそ楽しかったわ。それに素敵なランチタイムを有難う。でもあたしはこれ以上嘘付きに成りたく無いから、貴方の事はこれからはシンジ君では無くてスグル君と呼ぶね!」
「ははは」
スグルが笑うと、本当に天使が笑っているように見える。
メイドの柳澤があたしの言葉に驚いて、只でさえくりんとした大きな目を何度もパチクリさせた。
そう、スグルの事をシンジと呼ぶのは、今日で終わりにしよう。
これからは、スグルとは真面目なお付き合いをしたいから。
所で、あたしが見つけた獲物に、あたしがここまで惹かれるのは、スグルの財力?それ共、9歳も年下だけどスグルのイケメンな容姿?或いは彼に備わっている底知れない魅力?
「ミサト様、私めがお送り致します」
どうやら、爺やがあたしを送って呉れるようだ。
これはスグルの連絡先を聞き出す絶好のチャンス!
玄関先の車寄せには、黒塗りのベンツが待機していた。
運転席には、例の背が高い男が座っていた。
そして車寄せに置かれているソファーには、サングラスをかけた3人の男性が並んで座っていた。
恐らく、ヤーイン財閥の者だろう。
自宅に帰ったら、直ぐにヤーイン財閥をググってみよう!
ヤーイン財閥の者は、館からあたしと爺や、メイドと秘書、そしてスグルが一緒に出て来たので、慌てて立ち上がるとあたしに深々とお辞儀をした。
多分、自分達が大切な客を追い出してしまったと思ったのだろう。
実際、それに近い状況だったが、今日の用件は概ね済んだし、何より慣れない上流階級の雰囲気に疲れを覚えていたから、あたしはヤーイン財閥の諸君に「グッドジョブ賞」をあげる事にした。
「じゃあ、そのうち又ね!」
スグルはそう言うと、あたしにウィンクを送った。
その上、スグルが直々にあたしのドアボーイまで買って出たので、ヤーイン財閥の者は頭が膝に着きそうな位の深いお辞儀を、再度、あたしにした。
「ミサト様、追い立てた様で誠に申し訳ございません」
ベンツが公道に出ると、開口一番、爺やがあたしに謝った。
「いいえ、どうぞお気に成さらずに」
執事としての経験を重ねたが故の、自然で優しい雰囲気を醸し出す爺やに対しては、あたしは不思議とスムーズに、まるで自分が淑女に成った様な上品な言葉遣いが自然に出来た。
「ミサト様からそう言って戴けると助かります。それから運転手の橋本の腕は確かですし、この車は堅牢性でご主人様が選ばれた車ですので安全でございます」
爺やは運転手とベンツについて、あたしに簡単な説明を行った。
「あ、橋本です。以後、お見知り置きを」
そう言うと、運転手の橋本はまた黙々と運転を続けた。
彼は元来、無口な性格なのだろうとあたしは思った。
「ミサト様、メイドから既にお聞きに成られたと思いますが、ご主人様は4歳の時にご両親を失われてしまわれました」
あのアマ~!メイドだと思って甘く見てたら、もう爺やにチクりやがったな!
「そうだったみたいですね?それはお気の毒な事でした」
「ええ、それで身寄りが無いご主人様を、お父上の親戚に当たるアンダーソン家の当主がお引き取りに成られたのです」
「アンダーソン家?」
「ラスベガスを始め、世界にアミューズメントを提供している超が付く大企業ですが、その他の事業も好調で、現当主のヘンリー・アンダーソン氏は世界の長者番付で常に20位前後にランクインされている方です」
道理で、スグルが裕福な筈だ。
「それは素敵なお話ですね。でもその事を何故、あたしに?」
あたしは正直、この車に乗った早々にこうした話を爺やがあたしにするとは思っていなかった。
「私めには、ミサト様がご主人様とは長いお付き合いをなさる様に思われるのです。老執事の感とでも申しましょうか」
「ヘっ?」