第2章 プリパレーション 9
マサージルームに入ると、赤紫蘇のエキスをアセロラで割った飲み物がウェルカムドリンクとして出され、ピンクソルトの足湯に浸かりながら、あたし達はその日の体調などを問診票に記載した。
次にエッセンシャルオイルを選定する事に成ったので、あたしはベースオイルに肌に滋養を与えるアンズの種子から作られる「アプリコットカーネルオイル」を指定した。
アロマオイルの方は、ここのスパはフランスのプラナロム社製のメディカルアロマを薦めていた為、ウェルカムドリンクの赤紫蘇と合わせる意味で、薬草感が強くて濃厚な甘い薔薇の香りが特徴の「シソ科タイムゲラニオール」を選んだ。
最後にセラピストを選ぶ事になったが、事前指名制度が無い為、誰もが手空きのセラピストの中から指名する事が決まりになっていた。
セラピストは当然ながら、全員が女性だった。
あたしはこうした本格的なアロママッサージを受ける事が初めてだったので、コミュニケーションを重要視して日本人のセラピストをお願いした。
エリカの方は英語が堪能な本場のベトナム人セラピストを選んだ。
そして、あたし達がマッサージを受ける部屋に案内されようとした時、キキョウが受付のスペースに入って来た。
あたし達がマッサージを受ける部屋を、予め確認して置く為だろう。
「あっ、お客様!マッサージのご予約でしたら、入り口の総合受付の方でお願いします」
マサージルームの受付を担当している女性がキキョウにそう言った。
「その人達は私のお友達で、次回はあたしもマッサージを受けたいので、コースの説明とかをして貰えませんか?」
「そうでしたか?それは失礼致しました。お客様、どうぞこちらの席にお座り下さい!只今、施術メニューを持って参りますので」
キキョウはあたしにウィンクした。
女性からのウィンクだが、キキョウからだったからか、それを受けてもあたしは余り嫌な気持ちには成らなかった
若しかしたら、ジェファーの訓練にはウィンクも入っているのかな?
あたしが案内されたマッサージルームは、壁がチョコブラウンで床のフローリングは濃いベージュだった。
棚や調度品からは東南アジアの雰囲気が醸し出されていた。
あたしにはそれらがタイ製なのかインドネシア製なのかマレージア製なのか、全く区別が付かなかったが、このお店が出来た背景からすると恐らくベトナム製品が多いに違いない。
「若しスマホをお持ちでしたらご連絡が入るかも知れませんので、ガウンをはちらのハンガーラックでお預かり致します」
20歳代半ばと見受けられる担当のセラピストはそう言うと あたしにバスタオルを手渡した。
「後は、そちらのブースの方でお着替えを済まされてましたら、このバスタオルをお身体に巻いた状態でベッドの上に腰掛けて下さい」
あたしはセラピストの指示に従って、試着室の様なブースでパープル色の紙製ショーツとブラに着替えると、バスタオルを巻いてベッドに腰を下ろした。
「先ず、リンバの出口が有る鎖骨と肩周りをほぐして行きますね。鎖骨のコリには老廃物が詰まり易いのでむくみの原因にも成るんですよ」
あたしの初体験リストがひとつ増える、高級アロママッサージが始まった。
「ここの受付でお会いした時から思っていたのですが、お客様のヘアスタイルは本当に素敵ですね。どちらのお店に行かれたのですか?私も一度行ってみたいな」
セラピストは、特にクライアントが初めて自身の施術を受ける場合、緊張を和らげる為にさりげなく相手を褒めるトークをするのだろう。
「お店ではなくて自宅の方にアーティストが来てヘアとメイクアップをして貰ったんだけど」
「まあ!出張で?何で贅沢なんでしょう!ご自宅にそれだけの設備が無ければ出来ませんから。羨ましいな~」
「シンディ・マリー・ヘルナンデスって人が助手を2人連れて来たくれたのよ。自宅の設備の方は余裕で大丈夫だったけど・・・」
「シンディ・マリー・ヘルナンデスですって?まあ、お客様ったらご冗談がお上手ですね!シンディは米国在住ですよ。でもこの技術の高さはシンディに匹敵するかも?」
「匹敵するも何もシンディ本人ですから。彼女は今、来日中なの!そうだ、爺やが撮って呉れた写真が有るので、あたし・・・いや、わたくしのガウンからスマホを取って来て貰えます?」
「爺や?」
セラピストは、あたしの「爺や」という言葉に驚いた様子だった。
キキョウからは、初対面の者に身元がバレそうな話はしない様にと釘を刺されていたのだが、あたしはすっかり桂川家の一員になったような気分でいたから、ついつい本当の事を喋ってしまった。
本当は、その「自宅」はスグルの自宅で、その「爺や」はスグルの爺やだったのだが。
だが、それを今更説明するのも面倒なので、この場はその流れに身を任せた。
あたしはスマホに写っているあたしとシンディの写真をそのセラピストに見せた。
「まあ!本当だったんですね。大変、失礼しました。お客様は超セレブでしたか?まあ!このメイクも何て個性的で素敵なんでしょう!あれ?でも、このお写真の日付は今日の午前中じゃ有りませんか?」
「そうだけど?」
「僅か5時間足らずで、シンディのメイクを落としてしまわれるなんて!超セレブの方にはそれが普通の事なんですか?私、溜息で指の方が疎かになりそうです」
そのセラピストは「凄いお写真を見せて戴いて有難うございました」とあたしにお礼を言うと、あたしのスマホを錠剤のケースと強く重ねてガウンのポケットに戻そうとした。
「あっ!その錠剤を触ってはダメ!」
「えっ?」
あっさー!このセラピストは押してはいけない錠剤を押してしまった様だ!
「あっ、お客様!どちらへ?」
マッサージルームの受付の方がら担当者の声が聞こえたと思ったら、大股開きで何時でもナイフが抜けるように身構えたキキョウがこの部屋のドアから入って来た。
「ひっ!」
セラピストは足が竦んだ様で、あたしのスマホと錠剤ケースを両手で持ったまま立ち尽くした。
それを見たキキョウは一瞬で全てを悟って、「失礼しました。部屋を間違えました」と言うと姿が見えなくなった。
あたしはキキョウの言い訳が可笑しくて、思わずフフフと笑ってしまった。
「若しかしたら、今の方はお客様のボディガードですか?」
セラピストはまだ足の震えが止まっていない様子だったが、意を決してあたしにそう訊ねた。
「ええ、そうよ・・・あなたが間違ってその錠剤ケースを押してしまったので、彼女はあたしの身に危険が及んだと思ったみたい。ゴメンナサイね、驚いたでしょう?」
「ああ、そうでしたか?私とした事が!大変申し訳有りませんでした!でもやはり、お客様はこのお店に見える普通のセレブの方達とは全く格が違われます。本当に異次元の格の高さです!その様な方のお身体をトリ-トメントする事が出来て私は指が震えるばかりです」
あたしが、この人生の中で絶対に聞く事は無いと断言出来るような科白を、このセラピストから聞いて、あたしは全身に擽ぐったさを覚えた。
これからあたしは、このセラピストに全身に感じている擽ぐったさと、長年に亘るしつこいコリを、ゆっくりと揉みほぐして貰う事にしよう!
その後あたしは、フェイシャルから始まる全身のオイルマッサージで、150分間のトリ-トメントを堪能した。
うつ伏せの状態で、あたしの背中や腰に対して日本の按摩に似た手技を使って呉れたのが特に気持ちが良かった。
フルボディマッサージが終わって、次のコンディショナートリートメントはリンパケアだったが、オイルをたっぷりと使ったロングストロークが極楽に昇る気持ちにあたしを誘って呉れた。
流石は、バンヤンSPAアカデミー・トレーニングスクール認定のSランクエスティシャン!
このマサージルームには、彼女の顔写真が添えられた認定書が飾られてたので、彼女がSランクのエスティシャンで有る事は知っていた。
「バンヤン ツリー ランコーで修行を?」
「ええ、2年程、スクールに通いながら、そこのホテルで実践を積みました。お陰で英語も少々話せる様に成りまして、日本に戻ってからもそれが役に立っています」
あたしは、とてもこのセラピストの事が気に入った。
彼女の話では、彼女の実家は、針灸マッサージ院を開業しているらしく、お父さんの厳しい指導の元、「あん摩マッサージ師」の国家資格も持っているそうだ。
道理で施術に按摩の技法も取り入れていたのね。
こうしたアロママッサージ店の多くは、幾ら高級店でもセラピストが持っている資格は、日本では飽くまでも民間資格に過ぎず法的にはグレーゾンだ。
その点、彼女からならマッサージを受けても、文句無く安心する事が出来る。
ここのスパには、残念ながら事前指名制度が無いそうで、彼女が手空きの時間に指名する事に成るのだが、彼女の方からLINE交換の提案があって、あたしがこのお店に来る時には連絡を入れて欲しいとの事だった。
「これからも私はお客様のお身体のトリートメントをしたいので、ご連絡を戴ければ、その時間は他のお客様の対応はお断りして、フリーの状態でお待ち致します!」
「そうなの?それは嬉しいわ。あたしも貴女にこれからもお願いしたいと思っていたから宜しくね」
その日が実現するかどうかは、その日まであたしがシンデレラでいられるかどうかに懸っていたのだが。
あたし達は着替えを済ませて、ラウンジに3人で集合して、支払いを済ませるべく総合受付の方に向おうとしていた。
それまでエリカは、幸せに満ちた夢見るような表情で、だが身体の方はぐったりとしてラウンジに横たわっていた。
「エリカちゃん、気持ちが良かった?」
「ええ、ずっと天に昇っていました」
「ハハハ、それは良かったわ。独りで歩ける?」
「大丈夫です」
エリカは、何とか独りでも歩けるみたいだった。
総合受付に着くとあたしは3人分、と言ってもキキョウはオレンジジュースを飲んだだけだったが、料金をジューシーペイで支払った。
「お客様はお二人共、この店のオーナーの紹介扱いに成られておられますので、150分でしたが、120分の料金に成っております」
「そうなの?それは有難う」
これもセバちゃん効果か?
もし不足があればあたしが残りの金額を現金で支払う積りだったが、無事に支払いは完了した。
そして一瞬だったが、ジューシーペイの残高に2と8の数字が見えた。
領収書を見たら、そこには税込みで11万7千5百円との記載があった。
ああ、セバちゃんは気を使って、ジューシーペイに40万円も事前に入金して呉れていたのか!
有り難い!
と言う事は、未だ残りが約28万円も有るのね。
よっしゃ~!これから4人で豪遊しても、全然、余裕じゃん!
そして総合受付から、領収書と一緒に渡されたジューシーペイのレシートを見ると、そこには何と残高が288万2千5百円と記載されていた。
マジ~!!!




