第1章 マイ・エンジェルボーイ 1
「ヘイ、そこの可愛いお嬢さん!この車に乗ってかない?送るよ」
「えっ?それって、若しかしてあたしの事?」
「ははは、此処には他に誰もいませんからねぇ」
その少年は屈託のない満面の笑顔を浮かべた。
天使のように純粋な笑顔。
あたしは、彼と同じくらいの年齢の時にはもっとマセくれていて遥かに俗っぽかった筈だ。
「何?そのクサイ科白?それよりも中学生が、大人の女をナンパしても良い訳?」
「良いんじゃない?二人さえ幸せならば」
子供の癖に、そして天使の笑顔を持ちながら、大人びたその落ち着きが妙にあたしの癇に触った。
「残念ね!あたしはちっとも良くないの!」
「ははは、嘘付きは倒錯の始まりだって爺やが言ってたよ」
「トーサク?ああ、盗作ね。少し似てるけど嘘付きの方は何も盗まないよ!僕ちゃんの爺やさんに教えてあげてね」
あたしはそう言うと、また公園を分断している大通りを歩き始めた。
「ははは、お嬢さん!盗作じゃないよ。倒錯の恋!僕たちの場合は禁断の恋と呼ぶ方がぴったりかもね?」
この辺りでは、圧倒的に目立っているライトブルーとホワイトのツートンカラー。
その車は、若しかしてオースチンヒーレー?
彼のそのオースチンヒーレーが、あたしの後をゆっくりと追って来た。
「僕ちゃんねぇ、ここ4~5分の間に貴方これで何回、はははと笑った?」
「3回だけど。お嬢さんは僕を笑わせるのが上手だから」
その子は乗馬服風だが、きっと腕が立つ服職人に作らせたであろう上質なツイードの3ピースを、とても子供とは思えない程、エレガントに着こなしていた。
「何処の金持ちのボンンボンなのかは知らないけど、兎に角、無免許運転だけは止めましょうね!貴方は目立ち過ぎてるから直ぐに捕まっちゃうわよ!」
「捕まるって、お嬢さんに?それなら僕は大歓迎だよ」
口が減らないガキだ!
わたしは段々、この少年から自分が馬鹿にされているような気がして腹が立ってきた。
「僕ちゃんがどうしてもあたしに捕まりたいって言うのなら、今日は非番なんだけど、特別に捕まえてあげるわ!」
「わ~い、僕、これからお嬢さんに捕まっちゃうんだね?楽しそう!」
少年は、本当に楽しそうで、わくわくしている表情に成った。
案外、この子は本当に純粋な心の持ち主なのかも知れない。
面白そうだから、もう少しだけなら、この子に付き合ってやっても良いかな?
どうせあたしは、この後、バーガーショップでランチを済ませて、本屋で立ち読みをしてからウィンドウショッピングをして家に帰るだけなんだから。
あたしはそれまで持っていたこの子に対する、癇に触る苛立ちや腹立たしさが、何故かしらスーッとあたしの中から消えて行くのを感じた。
「はい、僕!そこまでよ!あたしは葛飾署の婦警、葛城ミサトよ!貴方を無免許運転の現行犯で逮捕します!」
あたしは、当然、このジョークがウケると思っていたから、柄にもなく天女のような笑顔を作った。
「ふ~ん?お嬢さんの名前、ミサトさんって言うのか?ねぇ、葛城婦警さん、こっちの席に座って!僕の国際運転免許書《International Driver's License》を見せるから」
そう言うと少年は、さりげなくセンスの良さが光っているバッグから、免許書らしき物を取り出そうとしていた。
オースチンヒーレーは英国製なので、右にハンドルが着いていた。
えっ?この子、エヴァもコチカメも知らないの?国際運転免許書ってこの子は外国人?
この子の金髪は若しかしたら自毛かも知れない!てか、絶対、自毛だよね。
確かに、最近は中坊でも髪を染めてるけど、この子の場合、日本的な細面の顔立ちだけど、目や鼻筋などを見る限り、超イケメンな青年に成る事が確定している。
だったら、わざわざ髪を染めたりする野暮はしないだろう。
あたしは急にこの子に興味が湧いてきて、開けられたドアから助手席に座った。
その子はあたしに、自身の運転免許書を差し出した。
「婦警さん!若し僕が嘘を付いていなかったら、罰として僕の家でランチを一緒に摂る事!」
その子が手渡した「国際運転免許書」には、彼の写真が貼って有り、スグル・カツラガワ・ジェファーソンと言う名前の記載が有った。
この子はやはりハーフだったのだ。
免許の取得国はアメリカ、そして生年月日は2010年5月3日。え~っと、ええっ?この子、15歳に成ったばっかりじゃん!」
中学生のナンパを非難したあたしだったが、流石にこの子が15歳だと知って驚きを隠せなかった。
その時、スーッとオースチンヒーレーが動き始めた。
「コラコラ、そこの君!車を止めなさい!」
スグルはあたしの言葉を無視して、クラシック音楽を車内に流し始めた。
「無免許運転じゃない事は認めるけど、これから何処にあたしを連れて行こうって言うの?」
「婦警さん、先刻、僕と約束したでしょ!僕が嘘を付かなったから僕の家でランチを一緒に摂るって」
「えっ?そうだったっけ?」
「そうですよ、ミサトさん!初めまして!僕の名前はシンジ・イカリです」
スグルは、その可愛らしい舌先をチロッと出して微笑んだ。
「何だ、エヴァは知ってたのか?」
「エヴンゲリヲンのAngel of Doom PVはジャージーシティのドライビングシアターで観たよ」
あたしは、ジャージーシティがアメリカの何処に有るのか全く見当が付かなかった。
でもまあ、ここは知ってる振りをしておこう。
「そうだったの!てか、君が碇シンジじゃなくて、スグル・カツラガワ・ジェファーソンだって事をあたしは知っているの。貴方は免許書の件では嘘を付かなかったけど、自分の名前の方は嘘を付いたでしょう?だからこれではお相子だね。所で君さ、嘘付きは倒錯の底に落ちるって知ってた?」
あたしは、先刻のこの子のマセた科白への切り返しとして、倒錯と言う言葉を使った。
そして、きっと余り可愛くないと思われる舌先をチロッと出して微笑んでみた。
「へぇ?そうなんだ?僕、知らなかったよ!でもミサトさんと一緒だったら、倒錯の底でも奈落の底でも落ちて良いよ!きっと楽しい筈だから!」
やはり、此奴は口が減らないマセガキだったのだ!
倒錯の底は兎も角として、奈落の底が楽しい筈が無い!
奈落の底へは僕ちゃんが独りで行きな!
そんなことを真面目に考えている時点で、あたしはすっかりこの少年のペースに嵌っていたのだった。
やがて、車は大きな交差点の手前に在るコンビニの駐車場に止まった。
ここに来るまで、東京と言えどもオースチンヒーレーのツートンは目立つ。
街路を歩いている人はこちらを振り向くし、対向車もこちらに視線を送る。
何しろ運転してるのが、セミロングの金髪美少年だったから尚更だった。
誰かが警察に無免許運転だと通報したかも知れなかったが、今の所、パトカーの追跡は受けていない。
はは、ランチはここで調達するんだね。
幾ら大人びていて、金持ち風だと言っても、所詮、15歳は15歳!
ランチはコンビニしか思い付かないのは仕方が無いよね。
「あたしは何でもいいよ!お弁当でもサンドウィッチでも」
そしてハンバーガーでも、と言いかけて、この日食べる予定にしていた「マックのエグチセット」の方がコンビニのバーガーより美味しかったのになと、セコいことをあたしは考えていた。
「スグルです。今から、素敵な若い女性を自宅にお連れするから、爺や、ランチの準備をお願いしますね。あっ、一寸待ってね」
あたしはてっきりこの少年が、コンビニでランチを調達するとばかり思っていたのだが、今の会話では彼の自宅であたしはランチを摂ることに成るらしい。
「ミサトさん、何か苦手な食材とか有る?」
あたしは子供の頃から、自慢出来るのは好き嫌いが無い事だったが、流石にこの流れで「あたし何でも食えます!」って言うのもは端無さそうだった。
そこであたしは、
「辛い物が少し苦手かも?」
と、今日だけで多分、3度目の嘘を付いた。
「苦手な辛さは、ホット系?シャープ系?ソルティ系?」
あたしは本当は、辛い物が大好きなんだよ!
だから、シャープ系とかプラット系とか言われても意味が分かるかよ!このヴォケ!
「多分、それ全部かな?」
あたしは、しおらしい口調でそう伝えた。
「ミサトさんは、あっ、今からお連れする女性ね。彼女は辛い物が全部苦手らしいんだ。そこの所は宜しくね。それからカルテットが組める人が空いていたら自宅に呼んで置いてね」
この少年は、あたしの名前が本当に「葛城ミサト」だと思っているのかしら?
「劇場版エヴァンゲリオン」を見たと言っていたけど、若しそうだったらこの少年は半分以上は車の中で寝ていた筈だ。
恐らくこの少年はあたしの本名などに、抑々《そもそも》、興味が無いのだ。
或いは、下手にあたしの本名を聞いて、何か面倒な事に成ってしまうのを嫌っているのかも知れない。
でもそれなら、あたしに取っても却って好都合だ。
兎に角、この少年は怪し過ぎる。
触らぬ神に祟り無し、と故人も諭している。
だがこうして、スグルの事をあれこれと考えている自分が、既にスグルに魅了され始めているとは、その時のあたしは全く気が付いていなかった。