9.苦悩王――責務と私情
その日、ヴォルガマー・メイビ・リキュウシス公爵は久方ぶりに彼が仕える至上の主――つまりミセビカ王の書斎にくるように呼び出しを受けていた。
互いに四十過ぎの年齢で、学生時代から親交があった国王と公爵は、昔はよく二人で酒を酌み交わすしていた。
しかしこの頃は互いに政務と家庭に忙しく、またそれらに関連して何とはなしに距離を感じるようになり、政にては協力するも、親交を温める機会は途絶えていた。
そのため、書斎に向かうヴォルガマーの足は僅かに緊張の色を含んでいた。
ヴォルガマーが王の初老の執事に案内され書斎に入ると、この国の第一人者たる国王が、グラスに赤い液体を注いで一人で仰いでいた。
名はホーカクス・ミセビカ。
誇り高き王国において現在最も貴き者。
黄金と言われた輝かしい顔。しかし今は深い悩みの黒が刻まれている。
あまり眠れていないのでは、と公爵は王に会うたびに心配していたが、状態はより深刻になっているようだ。
「おお、よく来た、友よ」
「友とは、恐縮でございます」
政務にてはいつも厳しい顔をしている王の第一声は非常に砕けたものであり、瞬く間にかつての仲の記憶をヴォルガマーに蘇らせた。
王が座る席の対面にヴォルガマーが座ると、その前におかれたからのグラスに王自らがワインを注ぐ。
「お前にはいつも世話をかけている」
「世話という意味では私を含め、この国の全ての民が陛下の世話になっています」
「これまで一度も戦争はせず、騎士として失格のような私がか?」
「だからこそでございます。失政も、無意味な戦もなく、陛下のおかげで誰もが安心して日々の生活に精を出せています」
「無意味な戦、か」
ヴォルガマーの言葉を引き取った王は、自嘲するように笑った。
「私は臆病者だ。いつも考えている。北でかの国が貪欲に領土を拡げ軍拡を進めていくなか、それを眺めるだけでよかったのか、と」
「彼らと我らでは生きている論理が違いましょう。……かの国においては征服した都市は灰燼に帰すまで徹底的に略奪するのが当たり前だと言います。あの王にとって人の命は一杯の杯よりも軽いですが、我らにはそのようなことはできません」
「だがそれで放置していた結果、もはや手をつけられぬほどに強大になってしまった。」
年々北方からの脅威が増大していることは公爵も感じている。
これまで何度かかの国から使節が来た。
初めはこちらの機嫌を伺うようであったが、今ではともすれば臣下に対するような声高であり、国境での紛争は当たり前になっている。
王の声を否定するように公爵はかぶりを振って一口ワインを含んだ。
舌で味わうというより自ら口の中全体に広がりそして沈んでいくような深い苦味が、すぐに口内を満たした。
「驚いたか?」
「ええ、これは……」
「ガイドフォール商会が専売している、最高級の代物よ。噂によると最高品質の葡萄を使い何十年も熟成しただけでなく、……分かるか?」
「――ワインの中に、微かな魔力が」
「一口で気づくとは流石だな。この魔力が甘味と渋みをさらに増幅させている。
「私も噂に聞いたことがあります、魔力が溶け込んだワインあるということは。世界中の王侯貴族が競って求めているため、例え君主であろうと早々は口にできないものだとか――それを大量にガイドフォールが送ってきたのだ。あの時に使ってくれと」
「……さようですか」
ガイドフォール商会は長年この国に大量の献金を行ったことで、当主は男爵に叙任された。
その娘は聖ラフィーカナ学園に入学しているが、その魔力量の膨大さで国中で有名となった。
そしてその娘はキリヘナから婚約者を――。
「――確かに珍しい味です。しかしながら恐縮ではありますが、私の口には合いません」
「……そうか。実は私も、それほど美味いとは思っていないのだ」
王は苦笑いをしながら言った。
「しかし、私の好みなどどうでもよいことだ。飲まないといけないのであれば、どのようなものでもいつでも飲んでみよう」
「それは私も同じです。近くの望まぬ時に望まぬものが出されても、笑顔で飲みましょう」
そう言い合う二人の脳裏にあるものは同じであった。
来るべき、望まぬ時。
それは王の息子の一人が公爵の娘を傷つけ、一人の女の元へ向かう時。
そしてその息子と女に次の世代の国を任せなければならない時。
新たな婚約と王位継承者の決定は、もはや然るべき決定事項として二人の前に屹立していた。
王はラーリシカ、ラーリシカ、と心の中で何度か呟いた。
あの息子については冷静に考えることが難しかった。
父と子の前に、王と皇太子の間柄で、それでよかった。
ラーリシカは想像以上に聡明な子だった。
北からの圧力に対しても、次世代の王ならば乗り越えるだろう、そう考えていたのは王も民衆も同じだった。
自分の治世を平穏に保ったまま息子に継がせることが望みだった。
騎士の国でありながら剣を抜くことがないのは英気を養う期間で、あの子が王となった暁には世界中にミセビカの武勇が響き渡るだろう、そう確信していた。
隣国との関係も改善してきたのも、次の王であるラーリシカの舞台を整えるためだった。
だが、あるいはそこで間違いをしたのかもしれない。
息子に意中の娘がいることは知っていた。強烈な思いを抱いていることは理解していた。
しかし、皇太子ならば、王ならば、私情ではなく国家の利益に重きを置くのは当然。
王は公爵の目を盗み見た。そこには負い目の感情があった。
父はただ命じ、息子はただ受けた。
当たり前のこと。しかし、そこから歯車が狂い始めた。
息子の体調は急激に悪化していった。
類まれなる才能が、その才自身の牙に食われていくように。
溢れる才は、溢れすぎて自ら溺れる。
必要だったのかもしない。彼女が。
無能と呼ばれる娘は、あるいはその溢れた才を受け止めることができるただ一人の女性であったのかも――。
「――陛下。大丈夫ですか?」
もの思いに更けている王に、心配した公爵は言葉をかけた。
「なに、飲んでいただけだ。後悔という合わせもので」
「そうですか。私も同じです。口に出すどころか思うことさえもできないことは、よいツマミになります」
「特にまずいワインを飲むときなどはな」
ニヤリと互いに笑う。
不満を漏らすことも感情を吐露することもままならない地位にいる王と公爵は、ただ目線で慰め合った。
じきに彼らの時代の閉じていき、新たな世界の幕が開ける。
その世界には何が待っているのかは分からないが、ただ暗雲が刻一刻と近づいてきている。
黒い雲が国を覆った時、果たして次の王は民に光を見せることができるのだろうか。
答えの出ぬ心配に、二人はしばらく黙したまま杯を重ねた。
その時、年老いた執事が慌てるように部屋に入ってきた。
「何事だ?」
「申し訳ございません。しかし緊急の用事がありまして……皇太子殿下のことでございます」
「皇太子? それはおかしい。いまはその地位はいまは空席であったはずだが――」
「――以前皇太子殿下であった方、ラーリシカ・カクカ・ミセビカ殿下、その人のことでございます」
執事の後ろから現れた女は、真摯であり誠実であり、何よりもその才を持って国中で有名な者であった。
チリリーナ・メクアビト。
三十代という若さで王宮魔術騎士に証である赤いマント纏いながら。
才能豊かで年若く、しかしまるでもう自分の限界を悟ったかのように学園では教師として熱心に教え、さらにかつて皇太子の家庭教師をしていた女は、この国の最高権力の二人を前にしていささかも怖気づくことなく、口を開いた。
「ラーリシカ殿下が、――復活されました」
あまりに予想外の言葉に衝撃を受けている王と公爵に対して、追撃するようにチリリーナは再度口を開いた。
「治癒したのは――キリヘナ・リキュウシス様でございます」