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58.老英雄――物語の終わり

 カロンギス・フーク宰相が部屋に入ると、彼の主は白く濁った酒が入った杯で口を濡らしていた。

 

「近頃、酒が美味く感じるようになった」

 

 バクフート・ヌンは上機嫌に言う。

 

「おかしなことよ。

 最近、花を綺麗に思うようにもなった。

 今日は庭の花々を見て過ごしておった。

 名前は分からぬが、オレンジや黄色、赤の鮮やかな色はずっと見ていられる。

 これまで馬上にて踏みにじることはあれど、愛でることなぞ考えもしなかったがの……」

 

「楽しまれているのは良いことでございます」

 

 カロンギスがそう言うと、ふっと王は笑った。

 

 その顔を見て、彼は王がいつの間にか随分と老けたことに気づいた。

 

 あの時まで――あの戦争の時までの王は、まだ血色良く活力に満ちているようであった。

 だがいまは七十を超えた年齢に体が急に追いついたように、老体という言葉が似合う。

 

「カロンギス、首尾は順調か?」

 

「はい、陛下が健在のおかげで人心の混乱も最低限ですんでおります」

 

 ミセビカへの遠征の失敗は大きな衝撃をガーリオルに齎していた。

 

 無敗を誇ったバクフート王が率いる軍が、初めてミセビカに敗れたのである。

 

 占領地の多くでは反ガーリオルの気運が高まり、治安も著しく悪化していた。

 

 だが、それでも未だバクフート・ヌンの威明は健在であった。

 

 王がほぼ無傷の後軍十万と共にガーリオルに帰還すると、それだけで多くの反乱の気運は瞬く間に萎み、人心は安定したのである。

 

 カロンギスは王に命じられて、敗戦の混乱を収拾するために動いていた。

 けれど大方の混乱はすでに王の存在で沈静化されていた。

 やることと言えば治安の悪化を招いた者たちの処罰であったり、改めてバクフート王とガーリオル軍の健在さをアピールしたりするということだけであった。

 

「民はすぐに平生の生活に戻るかと」

 

 カロンギスがそう言うと、バクフートは安心したような顔で笑った。

 

 その笑顔はまるで好々爺のようなこれまで見たことのないものであった。

 

「うむ? どうした、そのような呆けた顔をして?」

 

「――は、はい! 申し訳ございません」

 

「儂の顔がそんなに変か?」

 

「いえ、そう言うわけでは……」

 

「くく、無理しなくても良い。

 儂自身、変と思っているのだ。

 あの戦争を気に――いや、儂があのキリヘナ・リキュウシスに敗けたと自覚した時より、儂は自分ががらりと変わったのを感じた。

 心の中でずっと張っておった琴線が切れたかのようじゃ。

 あれは紛れもない敗北、しかし爽快な敗けであった」

 

 王はそう言いながらまたぐびりと酒を飲んだ。

 

 それは山羊の乳を発酵して作られた、この国の特産の酒である。


「これからは徐々に息子たちに権利や位なぞを移譲していく。

 あやつら、喧嘩せずに治めればよいがの」

 

 バクフート王には十人を超える子供がいて、後継者問題はガーリオルの喫緊問題でもある。

 

「後継者はやはり第一王子で――」


「うむ、やつで良い。それが一番丸く収まるじゃろう。

 来年には王位を譲ってやろうかの。

 あやつの足場を固めてやる必要があろうて」

 

 カロンギスは王の言葉を驚きながら聞いていた。

 

 これまで王は後継についてぽつりぽつりと話すことはあっても、王位を移譲する等ということは決して口にはしなかった。

 

 それは王がまだまだこれからも国を統治していくとう意志の現れであると周囲の者も理解し、王の前では決して後継者について口にしなかった。

 

 バクフート王はカロンギスの表情を見て、何かを察したように笑い、声を出した。

 

「儂の時代は終わった。

 もう血は見たくない。

 儂の戦は終わりじゃ」

 

「……」

 

「儂の息子たちのことを考えても、儂亡き後ガーリオルはこれ以上拡張はできんじゃろう。

 肝要なことはミセビカと協調を取ることじゃ。

 ミセビカにあの二人がいる限り、かの国が世界を牽引していくのは間違いない」

 

「……承知いたしました。しかと胸に刻みます」

 

 カロンギスは胸に去来する寂しい思いに耐えながら声を出した。

 

 バクフート・ヌンの時代は終わった。

 他ならぬ、王自身がそう言ったのだ。

 

 ガーリオルの民は王を恐れながらも、尊敬し、何よりも誇りに思ってきた。

 

 大帝国を築き、世界に覇を唱えた。

 最強という名をほしいままにした。

 

 彼の英雄譚はこれからも長く語り継がれていくことだろう。

 

 その終焉を、カロンギスはただ一人で、目撃したと感じた。

 

 ――いまこの瞬間に、陛下の物語は終わったのだ……。

 

 彼はこれまでの王の偉業に敬服を示すように、深く深く頭を垂れた。

 

「お疲れ様でございました」

 

「ふむ、疲れたか。

 そうじゃな、些か疲れているのかもしれんの」

 

 王は酒を口に含み、また柔和に笑った。

 

「ほれ、カロンギス、お前も酒を飲め。

 儂がついでやろう」

 

 カロンギスは空の杯を渡され、王がそこに酒をついでいく。

 

「かたじけなく存じます」

 

「ふむ、これからも頼むぞ。

 今も、儂の後も、この国を頼むぞ」

 

「――はい」

 

 二人は杯を掲げ、共に酒を飲もうとした。

 

 その時。

 

「なんかつまらないわねー」

 

 場違いな女の声が聞こえた。

 

 そして足元から影のような黒い液体が伸びてきて、二人の杯を貫いた。

 

「バクフート・ヌン、随分とつまらないジジイになったわね。

 あなたを殺すために、わざわざここまで来て上げたのに」

 

 黒の液体が部屋の隙間から這い出るように現れ、一人の女の形を作った。

 

 それはガーリオルに救援を求め亡命し、ミセビカとの戦争の起因となった女。

 その挙句に王と宰相に裏切られミセビカに引き渡されたはずの――女の形をしていた。

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