3.無能女――さだめ
ジャックス様から婚約の破棄を宣告された三日後、私は馬車に乗って、ある屋敷に来ていました。
この三日間は無為の時間でした。
ジャックス様の言葉と態度は私の中からあらゆる熱意を奪い去ってしまったかのようでした。
将来のことも学業のこともわきにおいて、私はただぼんやりと部屋で窓の外を見て過ごしていました。
屋敷はミセビカの都の中でも離れの高台にあって、冬は温かく夏は涼しい風が吹くことで有名でした。
屋敷の主はラーリシカ・カクカ・ミセビカ殿下。
ジャックス様や私より二歳年上のミセビカ王国の第一王子です。
幼いころはジャックス様と共にラーリシカ様とも一緒に遊んだりしていましたが、私がジャックス様と婚約して、ラーリシカ様も隣国の王女様を将来の伴侶として迎えられると、自然と会話する機会も減っていました。
しかしながら、ラーリシカ様は二年ほどまえからある病に伏していました。
その病に正式な名称はありません。
正確には、それは病ではなかったからです。
巷ではそれは『高貴なる病』と言われています。
ラーリシカ様はあまりに膨大な魔力を保有する才を生まれ持ってしまったために、魔力と肉体と精神のバランスを崩してしまったのです。
ラーリシカ様は幼いころから歴代の王家でも格別に膨大な魔力を有していました。
それに周囲の者たちは頼もしく思う一方で危うさも感じていました。
魔力を川を流れる水に例えるなら、肉体と精神はその川の水路である。
水路の三分一や、半分を満たす程度の川と、八文目までを満たす川であれば、水路ないに収まっている意味において、なんら悪い影響をおよぼすことはない。
しかし、水路を超える量の水が流れてしまうと、それは洪水となって大地におびただしい危害を与えることになる。
この時の大地とは魔力と水路の所有者である人間のことです。
ラーリシカ様ご自身も昔から自らの水路の大きさとそこを流れる魔力量の危うい均衡を理解されておりました。
そのため少しでも水路を広く深くするために懸命に鍛錬を積んでおられたのですが、ちょうど二年前の夏ごろに、遂に許容することのできないほど魔力が増えてしまい、倒れてしまったのです。
屋敷の前に来ると、門の前で私を待っている者がいました。
黒のスーツのようなシュッとした服を着ています。
「キリヘナ様、お久しぶりでございます」
「あら、コウ、久しぶりですね。わざわざ出迎えてくれたのですね」
亜麻色の短い髪にまん丸な黒の目。彼はラーリシカ様と同じ年の従者でした。
幼いころから将来ラーリシカ様を支えるように一緒に育てられていたため、私とも幼馴染のようなものです。
私はコウから差し出された手を取って馬車を降りたのですが、その時、彼の顔が酷くやつれていることに気が付きました。
「……ラーリシカ様の容体はあまりよろしくないようですね」
「……。殿下は、キリヘナ様にお会いしたいと、そう願われております」
俯きがちにそういう彼の言葉に私も胸が詰まる思いで、返答することができませんでした。
案内されたのはとても清潔感のある白い部屋でした。
あらゆる調度品の色が白よりにされていて、ところどころに観葉植物が目休めのために置かれています。
その方はそこの中央に据えられたベッドの中で、薄い紫の患者衣を着ていました。
研ぎ澄まされた剣のように鋭く光っていた瞳は、いまは弱弱しく空を彷徨っていて、目の下には大きなくまができ、艶やかであった黒髪もぼさぼさになっています。
そして顔も、クビも、手も、全体が病的に青白い。
彼は上半身を起こして何かに耐えるように、あるいは懸命に抑えつけるように、何度も深呼吸をしていました。
額からは汗が噴き出ています。
「――殿下」
コウの言葉にゆっくりと顔をこちらに向けますが、それも力のないものです。
「キリヘナ様を、お連れしました」
「……。キリヘナ……。おお、キリヘナ嬢か」
その時に彼は――ラーリシカ殿下は、初めて私の存在に気が付いたように、私を見つめました。
目と目が会ったとき、私は殿下の弱弱しい瞳に微かに力が籠ったような気がしました。
瞳の奥底にある緋色の光は、いまも人を魅了するように確かにそこにあります。
「ラーリシカ殿下。お久しぶりでございます」
「キリヘナ嬢。すまないね。急に呼び出してしまい。そしてこんな醜態を見せることになって」
ラーリシカ様はそう言って卑下するように細くなった右腕を上に向けました。
私は殿下に近づき、その右手を両手で掴みました。
そのままベッドの横に膝をついて、殿下と顔を合わせました。
「弟が馬鹿なことをしたと聞いて心配になって呼んだのだが、逆により心配をかけることになってしまったようだ」
「とんでもございません。お久しぶりにお会いできて、とても嬉しいです」
私はポシェットからハンカチーフを取り出して、殿下の額の汗を拭きました。
すると殿下は身を委ねるように目を閉じました
「大丈夫でございます。もうすぐ回復しますよ。そうしたらいつもの、あの力強く、太陽のような殿下に戻れます」
殿下は私の言葉に笑みの形を作りました。
「ふふ、力強い太陽のよう、か。君には私はそのように見えていたのかな」
「それは……。そうです。殿下はいつも輝いていて、私は直視することができませんでしたから……」
病に倒れる前のラーリシカ殿下は国王陛下の嫡子であり、内包する魔力は膨大で、カリスマ性を持った方でした。
その容貌はどんなに冷たくなった女心であっても一目見るだけで溶かしてしまうと言われるほどでした。
「ならそんな君がこうして私を見つめて汗を拭ってくれるようになったのなら、病に掛かったかいがあったのかもしれないな」
そう言って悪戯っぽく笑う殿下。
「しかし殿下、私がこのようなことをしてよろしいのでしょうか。殿下には婚約された方が――」
「ああ、それは大丈夫だ。彼女はもう故郷の国に帰ったから」
「……それは存じませんでした」
「そうだろうね。私がもうすぐ死ぬと分かったから、政治的な婚姻も不要になったということだ」
殿下の言葉を聞いたとき、息が止まりました。
死。その言葉のなんと重く、黒く、苦しくことか。
「まさか。そんなことは……。
――そんなことは、ございません、よね……?」
「キリヘナ嬢。そんな顔をしないでくれ。あなたがそのような顔をすると私まで悲しくなってしまう。
……残念ながら、ラーリシカという肉体はもうだめのようだ。近々私の魔力が私を食い殺してしまう。
だから、最期に、君に会いたかったんだ」
私はラーリシカ様の右手を改めて両手で握りました。
とんかちに後ろ頭を叩かれたかのような衝撃でした。
俯いて彼の手に額を当てました。
「魔力のことを考えると、私たちは互いに極端なようだね」
殿下はそう言いながら左手で私の頭をさすってくれました。
「弟が君にやったことを聞いた時は殴りこもうと思ったが、いまの私には立つ力さえない。それが何よりも悔しい。
ただ、婚約が破棄されたからと言って、君の優しさも、美しさも、損なわれることはなかった。
それは、いまこうして実際に君を見た私から言える」
殿下の言葉に私の心は包まれて温められる。
そうして、私は、むかし抱いていた、抱いてはならない思いを、思い出してしまった。
人形には相応しくない。
いや、例え人間であったとしても、不相応な思い。
魔力に満ち満ちた輝く王子と、空虚で冷たく暗い娘。
私は顔を上げて殿下を見ました。
殿下も私を見ていました。
二年間の闘病生活にてぼろぼろになり、ついに死が迫っているという殿下の顔は、確かにかつての強さはございません。
しかしそこにいるのは紛れもなく幼いころから知っている殿下であり、私の憧れの方そのものでした。
「殿下、私は――」
その時、私は何を言おうとしていたのか、自分でも分かりませんでした。
分からないままに言葉を続けようとした時、それを制すように殿下が口を開きました。
「キリヘナ嬢。私はあなたが好きだった。あなたの婚約者になりたかった」
「――」
ラーリシカ様の口から出た言葉は、まるで剣のように私の中に深く入りこみました。
耳を疑いました。
現実が遠のいて、ふわりと、宙に浮かぶような気がしました。
体の中で、何かが溶けていくような。
――どんなに冷たくなった女心をも溶かす瞳。
いや、私の心はとうの昔に溶けていました。
溶けて沸騰して蒸発して、消えていたはずでした。
あまりの混乱に無表情となった私の顔を見て、ラーリシカ様は取り繕うように笑みを浮かべました。
「突然すまない。こんなことを急に言われても迷惑だろう。
私もこの思いは誰にも打ち明けてはならないと決意していたのだが、けれど君と弟との婚約がなくなったと聞いて――」
そこで殿下の言葉が止まった。
驚いたように私を見つめている。
そして私は、何かが両頬をつたう感触を持ちました。
それは目から止めどなく溢れでていました。
目が熱い。
鉄仮面をつたうしずく。
おかしい。
もう何年も、記憶を辿っても思い出せないくらい涙を流していないというのに。
ジャックス様に振られた時も、お父様の優しさに触れた時も、こんなことにならなかったというのに。
「……殿下、無様な姿を、申し訳ございません」
「……いや、私の方こそ、唐突過ぎた。変に混乱をさせてしまったようだ」
私は首を振った。
そしてラーリシカ様の手を持ったまま、両手を手にあてた。
「私も殿下をお慕い申し上げています。
ラーリシカ様だけを、昔から――いまこのときも」
その声色は、努めて冷静に、人形のように出せたと思う。
しかし、そう言う間も涙はぽろぽろと流れていました。
幾瞬か、黙した時が流れました。
ラーリシカ様は一心に私を見て、私もラーリシカ様を同様に見ています。
三日前に目の前で見せつけられたジャックス様とアシュシュミ嬢の視線の中でもこのようなことが起きていたのでしょうか。
あらゆる思考がさぁーと泡のように光ながらきえてゆく。不思議な感覚。
時間の流れが歪む。ひと時のうちに日が上り落ちていくようで。あるいは一瞬が永遠に続くかのようで。
しかし、その時はまさに泡沫のようにすぐに消えてゆきました。
まるで悪魔の手が伸びてきて、その時を奪い去っていったように。
右手に痛みを覚えて視線をそちらに移すと、ラーリシカ様の右手が私の手を強く握っていました。
そして目をラーリシカ様に戻すと、そのときには殿下は目を閉じていました。
ラーリシカ様は何かに耐えるように、嵐が過ぎ去れるのを待つように、体中を強張らせています。
顔から血の気が引いていき、苦悶の表情を浮かべ、しかし目の前の私に心配させないとするようそれを懸命に隠そうとするように、無理に笑顔を作られました。
それは数十秒ほどつづいたでしょうか。
やがて波が引いていくように青ざめた顔に血の気が微かに戻り、殿下は目を開けました。
「すまない。たまにこうした時がくるんだ。魔力の嵐が私の中で荒れ狂う時が」
ラーリシカ様は肩で息をしながら言いました。
魔力が体内で暴れるということは、体のあらゆる箇所を一斉に内側から鈍器に殴られる激痛が走るといいます。
その例えは誇張ではなく、事実として魔力が殿下の内蔵や肉や骨に甚大なダメージを与えています。
「溢れる魔力を外に放出することはできないのでしょうか?」
私の問いに殿下は首を振りました。
「こうなってはもはや無理だ。私は魔力を魔法に変えて外に出す力が残っていない」
「魔力を外に出すには魔法に変換しないといけないのでしょうか?
「ああ、そうだ。だから私は倒れる前は定期的に無人の野原におもむいて魔法を放っていた」
「そうなのですね。申し訳ございません。私は魔力についてはあまり分からないもので……」
魔力を魔法に変えて放出するというのは恐らくこの世界で私以外の人にとっては当たり前のことなのでしょう。
しかし魔力がゼロの私には、魔力がある人たちの常識を理解するのが難しいものでした。
「謝ることはない。こうして君が私のことを思って考えてくれていると分かるだけで、私には力になる」
「ありがとうございます。……それではもう一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
その言葉に甘え、私はまた率直に浮かんだ疑問を聞いてみました。
実はラーリシカ様の病気を知った時から思っていた疑問を。
「殿下が自力で魔力を放出するのが難しいのであれば、他の人が殿下の魔力を代わりに使えばよいのではないでしょうか?」
「――なに?」
殿下は私の言葉に虚を憑かれたような顔を見せ、目を細めてじっと私を見つめました。