2.無能女――唐突な誘い
ジャックス様に唐突に婚約の破棄を宣告され、そこからどうやって屋敷に帰ったのかは、正直、あまり覚えていません。
屋敷ではリキュウシス公爵家の忠実な従者たちに身を任せるようにして先導されるままに歩き、白が基調で花柄の模様が編まれており水色のフリルがついてあるがシルクの室内着に着替えました。
屋敷の従者たちは魔力量の意味では私よりも優れた者たちでありますが、リキュウシス家とお父様へ忠誠を誓っており、そのためにお父様の娘である私に対しても粗略に扱うことはありません。
少なくとも、形式的においては。
実のところ公爵家の生まれでありながら無能であることの後ろめたさのため、私の方から彼らとは距離をとっているのです。
リキュウシスの肩書がなければ道端で野垂れ死ぬことこそが相応しいと、幼いことから陰に陽に教えられてきた私は不必要に彼らに迷惑をかけることはできません。
私には専属従者として女性の使用人が一人ついています。しかし私と恐らく同年代と思われる彼女の実際の年齢も、名前すらも、知りません。
「先ほど使いの者が来まして、今日はご当主様が早く帰られ、お嬢様と一緒にディナーをされるとのことです」
そう言ったのは屋敷を取り仕切っている執事長です。
彼の齢は六十を過ぎでおり、おじい様の代から私たちに仕えてくれています。
リキュウシスの特徴である生まれながらのシルバーの髪とは異なる年齢による白髪をオールバックでまとめ、頬や口に深く刻まれた皺は彼の人生の濃さを示しているようです。
執事服をピシッと着込んだ彼の言葉をあいまいに聞いながら、私は足早に二階の自室に向かいました。
そこで椅子に座って使用人が入れてくれた紅茶を飲みながら、窓の外から見える庭の花をぼんやりと見ました。
紅茶の華やかな匂いが鼻を包み、また口に含むと優しく体を温めてくれ、夏を前に元気一杯に咲き誇る黄色や青の花が目を癒してくれるのですが、それでも、私は自身が氷に覆われている感覚から抜け出すことができませんでした。
寒い。酷く、とても酷く、寒い。
私は人形でなければならないのに。
青白い私の顔を見てか、何度か横に控える使用人が声をかけようとした気がしましたが、私はその度に拒否するように敢えて少し遠くを見るようにしていました。
そうやって窓の外の花を見て時間を過ごしていると、日が沈むころにお父様が帰られたとの連絡があり、ダイニングルームに移動しました。
「おお、キリヘナ。私の可愛い娘」
ダイニングルームでお父様の顔を見て、声を聞いた時、私は思わずその胸に駆け込みそうになりましたが、懸命に耐えました。
しかし、そんな私に代わるようにしてお父様は速足に近づいてきて、優しく抱擁してくださいました。
ヴォルガマー・メイビ・リキュウシス。
それがリキュウシス家の現当主であるお父様の名前。
シルバーの髪を左右に二つずつカールさせ、口と顎に生やした髭も綺麗に一部の隙もないかのように整えられています。
人々はその顔を見て荘厳さを形にしたようなと口にしますが、私に見せるお父様の顔はいつも甘い以外の言葉が見つからないものでした。
お父様の胸の中で、私はピンと張っていた何かが切れたように感じました。
それは宰相としていつも夜遅くまで政務に忙しいお父様が今日に限って早く帰られたのは、他ならない私のためであると、髪を優しく撫でられているときに気が付いたためでもありました。
自分でも理解できない感情が湧き上がり私は、お父様、お父様と、二度呟きました。
それはまるで壊れた機械仕掛けの人形のようなでしたが、お父様は変わらず抱き続けてくださり、呼吸を落ち着けるようにゆっくりと髪を撫でてくれました。
そうして何分間か、お父様の優しさに包まれた後で、私たちは食事の席につきました。
重いものがずーんと体の中でうずくまっている感じがして、正直食欲は全くなかったのですが、私の好物のニンジンのクリームスープが出たので、それだけは完食することができました。
お父様は婚約の破棄について何も言いませんでした。
ただ労わるような目を向けてくださり、それで私は甘えたお願いすることができました。
「あの、お父様」
「ん? 何だね?」
「明日、学園を休んでもよろしいでしょうか。」
「そうだね、私もそれがよいと思う。明日だけと言わず、一週間ぐらい気分転換に休んでもよいのではないかな」
食事が終わって席を経つと、お父様は近づいてまた抱きしめてくださり、懐から一つの手紙を取り出して私に渡しました。
「おまえ宛の手紙だよ。誰からだと思うかね?」
「……さあ、見当もつきません」
「おまえにとっては懐かしい方だよ。ラーリシカ殿下だ」
「まあ、ラーリシカ様……」
「殿下はキリヘナに会いたいと仰っていた。よかったら休みの合間に行ってくるといい」
そう言って、お父様は私の頬にキスをしてくださいました。