バカはいわなきゃわからないが、いったところですぐに忘れる
股がって腰を振る朧げな顔の娼婦が溶け崩れる姿に驚いてキクルは目をさました。
「娼婦ってのは夢のなかでもしわいときたか」
ま、仕方がねえ、ただ乗りされたら商売あがったりだしな、そうキクルはひとりごちるとボサボサの髪を掻きむしる。生活のために春をひさぐ者がただで転ぶのは相手が間夫と相場が決まっている。
よろよろと立ちあがると腰を数回叩いた。
年よりじみた仕草だが、窮屈な格好をしていればそうしたくもなる。
アパートに戻る手前で睡魔に負けたらしい。
雲が星や月を覆い隠して空は頻闇と化している。
静かであった。
スラム街にほどちかいエリアである。住人の気質はスラムの連中とそう差はない。夜を徹しての掃除に励む気力や義務感を期待するだけ野暮というものだ。
強烈な悪臭にキクルは鼻を押さえた。
硫化水素の臭いである。
サウナに行く暇があるなら酒を選ぶ、およそ衛生観念と無縁の連中の巣窟ゆえに異臭はめずらしくもないがここまでは稀だ。
「犬っころの死骸でもあるのか?」
キクルは臭いの元へ振り向く。
闇に紛れていたそれを認識するのに少々の間があった。
足元で粘塊が蠢いている。
スライムであった。
「まさか、しわい女に感謝する日がくるとはな」
そのまま熟寝を貪っていたら喰われていたであろう。
キクルは剣を抜くと無造作に突き刺した。
スライムは形をもたないゲル状のモンスターの総称である。大雑把な区分ゆえに強者もいるが──ゲセリット侯爵令嬢のセシルの脇侍がその最たる例である――たいがいは受肉できずにいる卑小な存在である。些細な刺激で消滅する。
いつもと違う手ごたえに太い眉根が寄る。
スライムは平気であった。
そればかりか、剣を飲みこもうとするではないか。
約七十センチの鉄塊を這いのぼった粘液が手に触れた次の刹那、電流がキクルの全身を駆け巡った。
「力を欲するか?」
その声は、直截、脳に響いた。
「力を欲するか?」
もういちどきた。低い声であった。
「されば、われに従え」
「ふざけるな」
キクルは獅子吼した。
誰何はなかった。眼前のスライムが発したと解している。剣と魔法のファンタジー世界の住人だけあってキクルもまた思考が柔軟であった。
「モンスターなんぞに乗っとられてたまるか」
「これは異なことを」
「なにがおかしい」
「酒を飲んで管を巻くことしかできぬ者がなにを怖れる?」
「――それは」
痛いところを突かれて、反駁の端緒すら浮かばない。
「他人に蹂躙されるより、力で他人をねじ伏せる生活のほうが愉快とはおもわんか?」
「できるのか?」
「容易きことよ」
スライムのせせら笑いが脳内で木霊する。
「ありとあらゆる女神に祝福された者とてしょせんは人の身。赤子の手を捻るように潰してくれようぞ」
「――なぜ、それを?」
「おまえの脳を覗いた時に浮かんできた。衆道の気のないわれでも情欲は禁じえん。一寸刻み五分刻みと肉を喰らいながら背後から突くのも一興じゃろうて」
悪魔のささやきに、キクルの股間が屹立して布地をおしあげる。
「条件はなんだ?」
キクルが訊く。好物を前にした飼い犬のように涎をたらさん勢いである。
「おまえの命といったら?」
「――?」
「冗談だ。かまどの灰ひと掴みにもならん命に興味はない」
「ふざけるな」
キクルの怒りを無視して、
「復讐を手伝え。われを裏切って功を独り占めした不逞の輩に裁きの鉄槌を……当人らが寿命であれば――ま、宮廷魔術師もかくやの膨大な魔力を蔵してでもいない限り朽ち果てているであろうよ――その子孫らに咎をうけてもらう。われを手にかけた功で乳母日傘の生活を送れたのであれば、先祖に代わって咎をうけいれるのは孝行者の本懐であろう」
「もし、子孫が没落して困窮した生活をしていたら?」
「裏切られ、無残に殺された身からすれば、生きてるだけで丸儲けよ」
キクルは肩をすくめた。
「われは復讐が成就すればそれでいい。それがすめばおまえに協力しよう」
「嘘じゃないだろうな」
「約束は守る」
どういうわけか、こと契約に関しては人より魔物のほうが信にたる。
召喚士や魔獣使いという職業が成りたつのはこれが理由である。
理由は謎だ。
研究者のなかには知能が低いゆえに生真面目に守ろうとするのだろうという者もいるが、それはあまりに驕った考えである。
習慣の差というのが一般的であった。
なにごとにおいても契約優先で、書類に目を通して瑕疵だ果実だよくわからん用語に頭を悩ませていたら、そりゃ、モンスターも暴れたくもなるさ、は酒の席での冒険者のたわごとである。
「決まりだな」
「力を得るにはどうすればいい?」
「われを喰え」
「胃薬しかはいるスペースがない」
「仕方がない」
粘液が波打った。
「狂うなよ」
目から鼻から口から耳から尿道から肛門から――九孔のみならず全身の毛穴という毛穴から粘液が体内に侵入した。肺腑を蹂躙する。
全身が火に炙られたかのように熱い。
ギリギリと音が鳴った。
凄絶な痛みにキクルが歯を食いしばる。郷里でガキ大将とその取り巻きに目をつけられて、連中を天井裏のネズミがたてる足音で目をさます神経質にした代償にじしんも腹を抉られて三日ほど生死の境をさ迷った経験があるが、これに較べたらちょっとしたアトラクションである。だが、しかし、苦悶のさなかだというのに、相貌は腹上死手前の脂ぎった男のそれなのは、一体?
股間は先ほどより怒張していた。
危機的状況による生存本能の発露ばかりではなかった。
ダース単位の唇と舌にまるで全身を愛撫されたかのような快楽に脳が蕩ける。
苦痛と快楽。
相反する感覚に間断なく襲われる。
なるほど、スライムが狂うなと忠告するわけだ。
キクルは崩れ落ちた。
九孔を塞がれているので涙を流すことすらかなわずにいる。
ただ、ただ、じっと耐えるよりなかった。
中和はなかった。いや、痛みがあるから快楽が、快楽があるから痛みがより強調される結果となっている。
三分と満たぬ短い時間であったが、永劫にも等しい拷問が終わるとキクルはたちあがる。双眸は十握に遭う前の覇気がもどっていた。
「いいぞ、力がみなぎってくる」
哄笑した。
「酒に溺れた生活で鈍っているな」
自嘲する声は低かった。
「さっそく殺りに行くか?」
「そう、急くな」
手櫛で髪を整えると、
「まずは酒を抜くことが先決だ。身だしなみも整える必要もある。それに、久方ぶりの受肉だ。飯と女で憂き世の垢を落としたい」
「なら、帰るか」
「うむ、帰ろう」
キクルは帰路につく。
口ずさむ戯れ歌はハーモニーになっていた。
――アパートの前で見知った顔に会った。
「酒を飲んで帰宅とはいい身分だな」
睨めつけるようにいうと唇を尖らせる。
「この鼻の潰れた男はなに者だ?」
「隣の住人です」
「親しいのか?」
「まさか」
「ならば、なんじの隣人を愛せよは不要か」
「顔を繋いだところで得るものがない」
「先ほどまでのおまえというわけか」
「そいつをいわれると手厳しい」
「ゴチャゴチャうるせえ」
鼻の潰れた男――隣人の相貌が憤怒で緋に染まる。
「なにわけのわからねえことをくっちゃべってやがる。こちとら、やりたくもねえ寝ずの番でむしゃくしゃしてるんだ」
「坊やだからさ」
「――?」
「弱いから雑用を押しつけられたんだろ」
「ほう、いっぱしの口をきくじゃねえか」
「だから、どうした? 毛深い胸に顔を埋めてひどいことをいわれたから仇を打ってくれとでも後ろ楯に泣きつくか?」
「てめえ」
胸ぐらを掴みにかかった手は触れる直前で消失した。
「うぬぼれるな。墜ちたとはいえ、おまえごときに、おさおさ、引けはとらん」
これはどちらが発したものか。
苦鳴は、おそらく地の底から湧いた忌まわしいなにかの働きであろう、大地の鳴動に掻き消された。地震である。
返り血でキクルの相貌が緋に染まる。
左手は地べたにあった。
キクルの剣の一閃で切り落とされたのである。
「くそったれ。こんなことをしてただですむとおもってるのか」
と歯を剥くが、キクルの双眸に映る隣人は怯えの色が濃い。
崩れ落ちた隣人の潰れた鼻先に剣が迫る。
「今日は寝ずの番だ。殺しをごまかすにはいい日だとおもわないか?」
肉と太い骨を断つ重い音が耳朶を打った。
深夜のドラマやアニメを観る感覚で夜の声に耳を傾けながらの一読は、無論、昼下がりにジャズやクラシックを薄く流した部屋で、ミルで挽いたコーヒーやグレイ伯爵が愛した紅茶にケーキやスコーンを嗜みながら読むのも粋ですよ。




