美しい者よ、なんじの名は十握なり
世界は白く煙っていた。
バケツをひっくり返したようなという表現がぴったりくる豪雨であった。
雨音がすべての音を掻き消している。
人々は屋内に避難している。
例外がいた。
十握である。
雨宿りの必要がなかった。
まるで台風の目のように十握の頭上は晴れている。そして、彼の側を通過した雨粒は石くれや樽に衝突するとあさっての方向に飛び散った。
雨も唯一無二の美に畏敬の念を抱くのか。
もっとも、多少、濡れたところで十握は意に介さなかったであろう。春雨じゃ、濡れて行こうである。くしゃみも、朝にこびりついた目ヤニを剥がす手間もない春のなんと清々しいことよ。
それは交差点を曲がった時にやってきた。
オレンジ色の火球が四方八方から十握を襲った。
火球が衝突して巨大な火柱となる。
「噂ってもんはあてにならねえもんだな」
フードで顔を隠した一団のなかで頭ひとつ大きい男が嘲笑した。
「ま、しょせんは熱をあげてる女どもの評判だ。喧嘩はしたくねえなんて甘っちょろいことぬかす色男が強えわけがねえわな」
「火線が交錯するのはよろしくないですね」
清澄な声は背後からきた。
そして、痛みは足からきた。
ぬかるみに頭から突っこんで、呼吸ができずに苦悶する。
涙目で顔をあげると男は口中の泥を吐きだした。
痛みの元に目をやる。右足の関節が増えていた。白いものが皮膚を突き破って顔を覗かせている。――骨だ。
それから周囲を見回した。
仲間はひと足先に夢の世界に旅だっていた。
事情聴取用に残されたようだ。
三メートルほど先に落ちている泥で鮮やかな模様が台無しの杖へ這い寄る混沌――ではなくて――這い進む男の手をスニーカーが阻んだ。
「喧嘩が嫌いなのは事実ですが」
十握は煙草の火を消すかのように踵に力をいれる。
骨の砕ける苦痛に男は絶叫した。
「正確を期すと、平和主義者じゃないので喧嘩はできないというのが本意です」
ですから、わたしの命を奪おうとした人の五指を切り落とすことになんら躊躇はないのですよ、いくらか夢見が悪くなるだけで、と十握はさらっと物騒なことをいってのける。
「――なぜ、炎を喰らって?」
「無事なのか、と?」
玲瓏たる相貌に薄い笑みが広がった。
「雨が存在感と詠唱をごまかしてくれる。他に通行人はいない。窓から雨を眺めるセンチメンタルな人はいるかもしれませんが、雨とフードで犯人の顔は視認できないでしょう。なるほど、不意打ちにもってこいの好条件です」
ですがね、とここで一拍置くと、
「こんな長時間がまんした時の小便みたいな勢いのない火球は気づいてからでも充分に間にあいます」
手を踏む足に体重をかける。
「雇い主をしゃべってもらいますよ」
「わからねえ」
男が叫んだ。
「嘘じゃねえ。酒場で安酒あおってたら餓鬼がしらないおじさんに頼まれたって封筒を持ってきたんだ。なかには手紙と両替商の為替がはいってた。金が欲しけりゃあんたが寝返りうつのにも顔をゆがめる状態にしろってさ。さぼったら役人に匿名で善意のタレコミがあるって寸法よ。クソ忌々しいことに、こと細かにおれらの悪事が列記してあった。あれじゃ、知らぬ存ぜぬは不可能だ。ひとつひとつはショボいが累積で重罪だ。運がよくて長期刑で尻の掘りあいに精をだすことになる」
「そんなところでしょうね」
十握に落胆は薄い。予期したことである。十握を狙う者は十握が難敵であることを嫌というほど熟知している。ならば、返り討ちを警戒して名を伏すが上策である。
「では、ごきげんよう。オールボワール」
腰を軽く曲げると右手が恭しく眼前から胸元へ。含羞に相貌が上気しているのから察するに意図せぬ行為のようだ。たしかに、外連味が過ぎる。
「見逃してくれるのか」
「それを決めるのは雲の上のかたです」
「――?」
「雨が早めにやめば低体温症から免れるかもしれませんよ」
助けを求める声は雨音に掻き消される。ロマンチストは脳が無意識に夾雑物を排除する。もし、通行人があらわれたらそれは彼らと同じ人種である。耐えるしかなかった。
十握は踵を返した。
おや、と首を傾げた。
「ハードボイルド的お約束だと半死半生の目に遭いながらもポリシーを貫くシーンでした。少し、ダメージを負ったほうがよかったのかも――どうおもいます?」
無論、返答はなかった。




