幸運の女神の前髪はカミーラのベルトに引っかかっている
春風駘蕩といった風だが、身近な者なら緊張感が見てとれる。
「授業は中止です。わたしの後ろ――そうですね、柱の陰に隠れてください」
新人冒険者たちの避難と地響きは同時であった。
それは空からやってきた。
跳躍したのである。
樹々をなぎ倒してあらわれた巨大な獣は象に似ていた。
ただし、祭りで曲芸を披露するそれより大きさは十倍以上ある。
元いた世界で見たマンモスの模型もこれに較べれば子象だ。
足は樹齢百年を超す欅の神木のように太かった。
牙にいたっては人をダース単位で貫けるほど長く、そして鋭かった。
もし、こちらの世界にもベルクマン・アレンの法則があてはまるとしたら、寒冷地にいる生物はどれくらいの大きさになるのだろうか。
無論、象と相違点もある。
カタツムリが這った跡のように陽光を浴びて煌めく粘液は腐食部位から垂れたものだ。
禍々しい気を放散している。
十握だから悠揚迫らぬ態度だが、柱の影に隠れた新人冒険者たちは悪疫に罹患したみたいに震えている。
緋色の双眸が炯々と光る。
十握だけを見ていた。
やはり、世の理から外れた忌むべき存在であっても美しい者には惹かれるのか。
前足が地面を抉った。
牙は十握の残像を貫いた。
新人冒険者たちは宙を仰ぎ見る。
惚けた面で大口を開けたのは無理からぬことである。
軽いひと蹴りでじしんの背丈を超えて、パルクールの上級者が壁をのぼるように巨獣の背に乗るなど誰が想像できよう。
「魔物でも生物なら点穴はあるでしょう」
たおやかな手から銀線がこぼれ落ちた。
人さし指ほどの長さの針が表皮に刺さった次の瞬間、禍々しい咆哮が耳をつんざいた。
蟻の一穴とはよくいったものだ。
巨獣は横転した。
大地が鳴動する。
舞いあがる土埃に少年少女たちはむせる。
十握は巨獣を睥睨する。
緋色の双眸は生気を失っていた。
「雉も鳴かずば撃たれまいに」
そういうと十握は象に似た巨獣に一本だけ生えている銀毛を引き抜いた。
血脂ひとつない、使用前となんら変わらぬそれは世にも美しい手のひらから忽然と消失した。
巨獣は痙攣している。
十握は振り向いた。
「――どなたか、ご足労をかけますがギルドへしらせてきてもらえませんか」
足に自信のある少年が走った。
ギルドの職員が冒険者を率いて駆けつけたのは再開した薬草採取が終わって、手持ち無沙汰に新人冒険者たちがゴシップ話に花を咲かせる、そのかん高い声に十握の眉間に皺が寄りっぱなしの三十分ほど経った頃であった。
魔獣の巨大さに声もでない。
少年の報告を話半分に聞いていたようだ。
「お願いします」
清澄な声に一行はわれにかえる。
「このクラスの魔物は森の最深部にいて表にでることは滅多にないのだが」
十握が瞬殺したことには疑問を抱かないギルドの職員がしきりに首を傾げながら書類に記載するそばからベテラン冒険者が解体してゆく。連携がとれていて手際がよかった。
爪や牙、毛皮は資源である。
肉は柔らかい部位は食用に、それ以外は飼料や肥料となる。
魔物の肉など食って大丈夫なのか?
当然の疑問。
問題はなくはない。
事実、貴族で食するのは美食が昂じて悪食の域に達した者か手元不如意くらいである。
見栄である。先祖の武功と有事の際に率先して体を張る条件で特権を与えられた者がイカモノ喰いでその任をまっとうできなくなったらいい笑いものである。孫子の代まで影響する。
見栄も金もない庶民は躊躇しない。なに、シオマネキのように片腕が尋常でないくらい肥大したり、鱗が生えるのは万にひとつの確率である。冷蔵庫もフリーズドライもない世界で食中毒と大差ないし、軽度な症状であればそこは剣と魔法の世界、治癒魔法で快癒する。
ギルド職員が不用な部位に小ぶりの壺にはいった油をまんべんなくかけると火をつける。
火魔法である。
指の先ほどの炎があらわれるのに一分近くかかった。
詠唱の長さに十握はうんざりする。
台所で竈に種火をつける時のエイリアならひと言ふた言でたりる。
図書館で読んだ本によると、魔法は神(悪魔)といった超越した存在の力を人間なりに工夫して再現したものとある。で、あるならば、そう易々と使えぬのが道理であるし、その美しい容姿から神に近しい存在といわれるエルフの血を引くエイリアが魔法に長けているのも頷ける。
離れた位置にいるので恥ずかしい文言が聞こえないのは不幸中の幸いであった。
肉の焼ける匂いにつられてどこからか腹の鳴る音がする。
冒険者を志願するだけあって気持ちの切り替えが上手である。
焼却処分は腐臭につられて他の魔物が出没するのを防ぐ目的と、屍肉を依り代に忌わしいなにかが顕現するのを防ぐためである。燃え残りは掘り返されることがないように地中深くに埋める。
それぞれが爪や肉で膨らんだ袋を肩にさげて街に帰還する。
大きすぎる荷物に足がおぼつかない少年もいる。
十握は手ぶらである。
功労者に雑事は不要と持たせてもらえなかったのである。
根が小市民の十握は面はゆかった。
辺鄙な場所にも関わらず持ちこんだソファーに寄りかかりながら白人が現地住民を顎で使役する――ありがちな映画のワンシーンに酢を飲んだような顔になる十握は、FBIの警告から始まる動画の冒頭のインタビューが重いと賢者に先走る慈悲深い男であった。
その行進を見た門番や市民らの相貌に一様に笑みが浮かぶ。
これほどの収穫である。
経済効果は大きい。
象牙だけでもひと財産である。
誰が仕留めたかは一目瞭然である。
惜しみない賞賛に十握は頬を赤らめた。
サブタイトルに悩みます。
前編後編やナンバリングは安易な気がして。
少しは苦戦させようか考えましたが、たかが図体がでかいていどの獣に十握がてこずるのもおかしな話とやめました。




