クロブタ(落としどころ)
十握は貴賓室にもどった。
興奮した客の称賛を浴びながらなので時間がかかる。さながら歌舞伎役者のお練りや花魁道中のようであった。意図せずに恍惚と立ちつくして前を塞ぐ女性たちを彼女たちの身分を尊重して手荒に押しのけることもできず、懇切丁寧に諭して席におもどり願ったスタッフはさぞ骨が折れたことであろう。
「ご苦労さま」
ミューゼム男爵がねぎらいの言葉をかける。
テーブルの皿は片づけられていて代わりに青の色彩が目に涼しげなガラスペンが山積みになっていた。よく目を凝らすと軸にシリアル番号が刻印されている。
「あなたの取り分よ。子どもの使いじゃないのだから手ぶらで帰るのは業腹でしょう。あなたは望外のお金がはいって、わたしは手を引く。そして、ガーニーといったかしら――初心な坊やは悪夢から解放される。めでたし、めでたし。かくして平和が訪れる。ゴランだけが離乳食から仕切り直しで気の毒だけど、最大多数の幸せのためということで滂沱の涙を飲んでもらうしかないわね」
「妥当なところですね」
露骨に不服気な顔をするソフィーを十握がなだめる。
「大ごとにしてもいいことはありませんよ」
相手は貴族である。これが体面を維持する金も事欠くありさまの泡沫貴族なら王を主人と仰ぐ領民の強みで追いこむことも可能だが、いかんせん、ミューゼム男爵は序列以上の力を社交界で有している。彼女は占いをよくする。熱狂的な支持者は多い。レベッカが屈したのはこれである。支持者と主要顧客がもろ被りしていてはいかんともしがない。なぜレベッカに白羽の矢がたったのかというと、熱狂的な支持者とはいえ貴族の子女を美人局に使うわけにはいかず、家中にうってつけの者がいなかったのである。苦労人の執事長が主人の勘気を警戒してメイドを標準なみで揃えていたのである。そこらの水商売の女をかりそめの淑女にしたてるという安易な策はリスクが高い。ガーニーはプリティな女性に六日で三千ドル(?)払うお人好しには見えないし、ボロがでるのは無論、口封じを怖れた女が保険を、あるいは女にくっつく寄生虫が欲をかいて露見する可能性があった。
「物わかりのいい人は好きよ」
「ただし、条件があります」
「なにかしら? 分相応の要求だと助かるけど」
「慎ましいことです」
十握はいった。
「レベッカさんは相応の罰を受けました。なのにその兄が無罪放免では片手落ちです」
「殺したの?」
「そこまでは」
足代と金貨三枚にリラックス効果のある香を徴発した。それだけのことだが、
「たしかにバランスが悪いわね」
ミューゼム男爵は凄惨な拷問の果てにレベッカが口を割ったと解釈したらしい。
「マダム」
右後方にいた脇侍が声を荒げる。
レベッカの兄を仰せつかるだけあって取り巻き連中のなかでは整った顔だちである。
「小さな知恵しかもたない者は大きな嵐がきたらあきらめて受けいれるものよ」
偽兄は孤立した。
取り巻きのなかでひとりだけ線の細い男がぶつくさ呟いている。季節の変わり目で支障をきたす者に貴族の脇侍が勤まるはずがないから、偽兄が自棄をおこした時に備えて詠唱しているのであろう。聞きとれなくて幸いである。
「穏便な処分をということでしたら金貨五枚で手を打ってさしあげますが」
「安すぎやしない」
これはミューゼム男爵。
「かまどの灰ひと掴みの価値もない命ですから、交通費と慰謝料でかさまししたところでこのくらいが限度かと」
いうもいったり。
憤怒に偽兄の相貌が紅潮する。
ぞんざいに扱われた床が不満を漏らした。
「近づくんじゃねえ」
背後からソフィーを抱えると獅子吼する。
「弱りましたね」
「諦めるの早すぎない」
剣身に映るソフィーの相貌は店にいるのと変わらぬ落ちついたそれであった。
「ねえ、こんなことして逃げられるとおもう?」
「やれることをやるだけさ」
「ですね」
「ちょっと」
首肯したのは十握で鋭い視線で睨んだのはソフィーである。
「くだらねえ痴話喧嘩してるんじゃ――」
「唾を飛ばさないで」
剣が床を滑った。
圧迫から解放されて胸の隆起がもどったソフィーは大きく息をする。
床に緋色の池ができている。
偽兄は虚ろな目だ。
理解が追いつかないのである。
無理もなかった。
可憐な女性に腕を握りつぶされたのである。
それも力んだ風もなく。
「お、おれの腕が……おれの腕が……」
ようやく放った言葉は弱々しいものであった。
「医者に診せておやり」
人の囲いの隙間から幾重にもたるんだ顎の肉が揺れるのが見える。
合図を受けた脇侍がうやうやしく一礼すると偽兄を引っ張って貴賓室を後にする。
「おやさしいことで」
「殺したらバランスに欠けるじゃない」
「そうでした」
「他に注文は?」
「ガラスペンをいれる袋をお願いします」
「金に困ったらわたしのところにきなさい」
「その時はぜひ」
ふたりは握手した。




