彼女とぼくの事情
間もなく訪れる夏の気配を纏い始めた五月上旬――晩春の風が笛の音を運んでくる。
街は賑やかであった。
お祭りである。
着飾った女性が多い。普段着のなかでもっとも清潔な一着に袖を通し、耳飾りなどワンポイントでアクセサリーをつけている。いつもより手間のかかる髪型にしている。元いた世界の浴衣に相当する趣向品は庶民には高嶺の花であった。
些細な変化。だが、こちらの世界の男たちの動悸を早めるには充分な効果があった。
毎月、十日に開かれる。
祭りにこれといった目的はない。豊作祈願は新春に終わっている。宗教は関わっていない。この世界の宗教は特権階級――金持ちの道楽にとどまっている。強いてあげるとするならば、人々の財布の紐を緩ませて好景気にするのが目的である。金の集まる商都ならではの行事であった。
出店は多い。
くじ引きの店やお面や玩具を売る店、酒やつまみの店など充実している。
魔法がなければこの時期には不可能な氷菓子の店に行列ができている。
火吹き男の炎に歓声が沸く。
豪快に放たれた火炎は竜となり観客の周囲を飛びかうと天高く昇って行った。
十握は散策している。
仕事帰りである。
十握たちも祭りを盛りあげてほしいと乞われて出店したのである。
初出店である。祭りの熱気にあてられて理性の箍が外れる浅黄裏が毎回相当数のぼるが、十握がいるなら大きなトラブルになりにくいだろうという判断である。
九九が六の段でつかえる手合いが不審な挙動をしようものなら、十握が手をくだす前に肝っ玉の据わったお姉さんがたの容赦ない罵詈雑言が飛ぶ。涙目で逃散して終わりである。筋金のしっかりしてる者なら十握とエイリアとその後ろ盾の兄と興行主の顔に泥を塗る愚は避ける。
売り子の魅力と品質の高い菓子パンが人気を博して三十分で売り切れとなった。
エイリアは素直に喜んだ。どこぞの人を経済動物とみなす派遣会社のケツ持ち学者と違って人間ができていた。
まっすぐ帰るのもつまらないので土地勘を養う意味も兼ねて遠回りしている。
小川に沿って歩いている。
涼気が心地よかった。
美しすぎる者に畏敬の念を抱いたか、蚊や虻などの雰囲気を台無しにする夾雑物は身を潜めている。
見知った顔を見つけた。
二十分ほど前にわかれたばかりである。
「どうしたの? 迷子にでもなった?」
川辺に腰をおろしていたソフィーが上目づかいに十握を見る。
「そんなところです」
十握は隣に腰かけている優男に視線を送ると、
「そちらは彼氏ですか?」
「遠い親戚」
「今のところはということですね」
「もう、からかわないでよ」
口調は軽いが目は据わっている。
本気で嫌がっている。
空気が読めるということはすばらしいことである。
青年は遮るように割ってはいるとガーニーと名のった。
「ちょっと困ったことになっていて……それで相談にのってもらってたところです」
沈痛な面持ちであった。
相談を口実に女性を篭絡しようとたくらむこすっからい男ではなさそうだ。
せっかくのハレの日に重い話はそぐわない。
「どうやら邪魔をしてしまったようですね」
後は若いおふたりでとお見合いの仲人じみた科白をいって背を向ける十握をソフィーは見逃さなかった。袖を掴まれた。
「どうせ暇なんでしょう」
「そこを突かれると弱い」
「それと、十握さんに動いてもらったほうがいい話のような気がするの」
「そういうことでしたら」
十握は腰をおろした。
「ええと、どこから話したらいいのか」
よほどこみいった話なのだろう。ガーニーは逡巡する。
「初めのところから話して終わりになったら口を閉じればいいのですよ」
発言者の容姿は大事である。あたりまえのことをふたりは真摯に受けとめた。
やはり青春であった。
ガーニーは恋をした。
出会ったのは十年前の今日、橋の上……ではなくて、三か月前の祭りの会場である。
相手はリリーという。可憐な見かけによらず彼女は積極的であった。体当たりしてきたのである。ハレの日だからと履いたかかとの高い靴が災いして転んだのであった。
細かい経緯は省く。いいだした手前、飛ばせともいえず、十握は聞きいっている風を装いながら川面に浮かぶ魚影を眺めてヒスタミンの発生を抑える。
交際は順調であった。むしろ順調すぎた。
先週までは。
ガーニーは大事な話があると呼びだされた。リリーは男を連れてきていた。ガーニーよりひとまわりほど年上で眼光の鋭い男である。
男はリリーの兄だといった。
兄同伴の理由は次の言葉でたりた。
「わたし、妊娠したみたい」
「はい、ストップ」
フラッシュバックで顔色の悪いガーニーを十握は冷ややかに見る。
「お金の無心でしたら他をあたってください」
「――?」
「突きあったふたりが子を授かる。しごく当然のことですが、悲しいことに結婚して子どもを育てられる状況にない。なにせ若すぎる。それを見かねた賢い友人が金の懐中時計や髪の毛を売って堕胎費用を捻出するのは美談ですが、今日初めて会った、しかも、パン屋と冒険者と頼まれごとが忙しくて色恋沙汰にとんと縁のない男に尻拭いの一端を担えというのはたかりです。くだらない偽善にお金を使うくらいならバカラのタイベットに賭けたほうがマシ。どうしてもというのなら力ずくでどうぞ」
ただし、わたしは平和主義者ではないので喧嘩はできませんが、と十握はつけ加える。
穏やかな口調であった。
それがかえって凄みとなっている。
キンと空気が凍った。
オニキスを嵌めこんだような黒瞳に浮かぶガーニーは悪疫に罹患したみたいに震えている。
「からかうのはそのくらいにしたら」
ソフィーが歯の根があわないガーニーのために助け舟をだす。
「半分は本心なんですがね」
十握だから半分ですんでいるが、元いた世界のクリスマスをパトラッシュの命日と手を合わせる学生が、まるで少年漫画の主人公然の偽善者にカンパを頼まれたらそいつの肋骨の十本もへし折りたくなるはず。色恋沙汰と無縁の者にスケコマシの尻拭いを頼むは鬼畜も鬼畜、天魔波旬である。
偽善は悪の腐葉土である。
やる偽善より、やる純粋な善意。
十握は慈善活動というだけで手放しで褒めそやすほど人ができてはいなかった。
貧しい人々の腹を満たすパンになると信じて買った割高なアクセサリーが、文化人という得体のしれない連中の飲み代であったことと、それを勧めてきた友人が謝るでもなくじぶんも被害者だと居直られたこと。街頭の募金に小銭をいれると、姿形は似ているが高天原の高貴な霊気を授かった十握と違って地の底から湧いたに相違ない下等な霊統の少年に――要は小生意気なクソ餓鬼に、
「ケチ」
と露骨に舌打ちされて、
「だめでしょう、光ちゃん。そんなこといっちゃ。みんながみんなお金持ちってわけじゃないの」
たしなめるのが筋の保護者に追撃を受けた苦い経験が尾を引いている。
――ん、やる偽善よりやる純粋な善意なら、やらない善は?
それはただの不参加で善でも悪でもない。
善意にだって限りはある。すべての不条理に首を突っこんではいられない。取捨選択は大事だ。
「わたしがそんなことで十握さんを呼びとめるわけないじゃない」
「ですね。ただのたかりだったらわたしが手をくだす前に、ソフィーさんが彼を倒れるまで殴って起きあがるまで蹴ってます」
「そんなことしないって」
「本当ですか?」
「――倒れるまでにしておく、かな」
笑い声の合唱にガーニーは俯く。
「で、ここからが十握さん向きの話なんだけどね、その彼女の兄が償いをしろといってきたのが、家の蔵に眠っているとある物をとってこいというの――露骨でしょう?」
「一応、確認しますが、ガーニーさんの家のお仕事は?」
「材木商。主人――ガーニーのお父さんは数寄者で珍奇な物をいっぱい買いあさってる」
決まりだ。
「当然、彼女の素性はわからないと?」
「リリーというありふれた名前以外はーーそうよね?」
ガーニーが力なく頷く。恋は盲目とはよくいったものである。
「調べてくれる?」
「報酬をいただきますが」
「その、いくらほどお支払いすれば――」
「そうですね。彼女の美しさに見合うぶんをいただけるならというのはどうでしょう」
繊指のしめす先、ソフィーの白磁のような滑らかな肌が上気したのは一拍置いてのことである。
十握も同調して耳の裏まで赤い。
恥ずかしいのだ。だったらいわなければいい話だが、美しすぎる体を受肉した副作用か、以前の十握なら考えられないキザな科白が自然と口をついてでるのである。
ガーニーは沈思黙考する。
「銀貨一枚でいいですか」
「死ぬにはいい日よね」
ソフィーの声音が低くなる。
「最低でも金貨一枚じゃないと」
自己評価が低すぎやしないかと喉からでかかった科白を十握はかろうじて飲みこんだ。
どういおうと報酬をつりあげるためと曲解されるのがオチである。
結局、金貨三枚で落ちついた。
ソフィーの美しさにまったくつりあわないが、あくまでものの弾み。弱ってる者からまきあげるのは酷である。不足分は徴発すればいい。
「では、ベタな美人局を懲らしめるとしますか」
十握は立ちあがる。
「無理にお願いしたんだからわたしも手伝う」
「危険ですよ」
「十握さんがいるのに」
ソフィーは弄うようにいう。
十握は肩をすくめた。
(改)のない人たちは凄いですね。
こっちはあげたそばから、ここはくどいから削りたい、ここは野暮ったいから別の表現にしたい、ここはテンポよくしたいから一文挟みたいと加筆訂正に大わらわです。
ところで、読んでいただいたかたはどのような感想をいだいてるのでしょうかね。
なにぶん癖が強い文体なので不安でして。