精神的苦痛の対価
壁に耳あり障子に目ありということわざがあるが、もし、壁に耳があるとしたら細大漏らさぬように象のように大きくして聞きいったことであろう。
広い部屋であった。
蟲惑的な甘い香りが漂っている。イランイランに似ていた。
踝まで埋まる足の長い絨毯が敷かれている。その上に鎮座ましますベッドが手狭に感じるのは占有者の巨体のせいであった。
そのでっぷりと肥えたキャンパスに描かれた筋彫りの魚を、まさに白魚のような指がなぞっている。
なぞっているのは露出過多の女である。
かろうじて秘めやかな部位を隠す布地が出るべきところを強調し、引っこむべき個所を抑えこんでいて裸より艶めかしかった。年の頃は元いた世界でいうところの三十路か。熟れきった体であった。
吐息が喘ぎ声に近い。
繊指が輪郭から外れて下へ進む。
淫らな手つきであった。
太った男はだらしなく笑み崩れている。
腰を通りすぎて、造物主が二日酔いで手をぬいたか悪意があったとしか考えられない、毛むくじゃらな上に浅黒い尻の割れ目から内側へ――。
不意に手が離れた。
おあずけを喰らった肥満男が声音にいらだちをこめて、
「おい、どうした?」
返事はなかった。
小さな刺すような痛みを背中に感じた次の瞬間、太った男は四肢を失った。
足の小指の第一関節を曲げることさえかなわない。脳が孤立した。たっぷりと綿のつまった枕の感触、猛ったものの存在、淫靡な香の匂い、すべてが消失している。
視覚は残ったが動けないのでシーツの皺を凝視するのが精いっぱいである。
「しゃべることはできますよ」
清澄な声。
一瞬、幻聴を疑った。
彼はうつ伏せであることを悔やんだ。
これほどの美しい声がだせるのなら容姿もさぞ美しいに相違ない。
「おい、おれが誰だか――」
「バーナムさんですよね。みずから世間を狭くして日陰を歩く者。身長は一八〇センチ。体重は一〇七キロ。スリ―サイズは上から……これは誰も得しない情報なので省略しますね。主な収益は密造酒の製造販売と興行の二本柱。――こんなところでしょうか」
「よくしってるな。だ、だったら、おれにちょっかいだしてただじゃすまないことくらいわかるよな?」
「さて」
「強気だな」
「招かれてここにいるわけではないですから」
清澄な声に嘲弄が加わった。
「単純な計算ですよ。この場につめていたのが八人、場所を訊きだすために三人で計十一人。あなたの子飼いは二十五人ですから半数弱が当分は使い物にならないということです。組織の建て直しと、これを機と見たライバルの横槍で前途多難な状況で他のことに割く余裕はさて」
「つまらん嘘を」
色男は金と力がないのが相場だ。おおかた酒をかっくらって注意力散漫な莫迦どもの目を盗んで忍びこんだに違いない。後で生まれてきたことを後悔する罰をくれてやるとバーナムは心に誓う。
「証拠ならありますよ」
太った男――バーナムの眼前を小指の雨が降った。十一本ある。切断面は滑らかであった。いや、滑らかすぎた。初めから取り外せるようになっていたのではと錯覚させる断面であった。
「後で返しといてください。二十四時間以内なら魔法でなんとかなると聞いてます」
「――なにが目的だ?」
バーナムは獅子吼した。癇癪をおこしている。切った張ったの前線から離れて久しく、体のみならず心にも贅肉がたっぷりついていた。
「素性は尋ねないのですか?」
「そんなもん、飲み屋の姉ちゃんの胸元にチップ突っこんで、この街で一番の色男を教えてくれっていやそれで事足りる」
「なるほど」
「いいから要件をいえ」
「せっかちですね」
「早く寝がえりがうちてえんだ」
「たしかにそれだけ太っていれば褥瘡も早いでしょう。痩せたほうがいいですよ」
「あんたが見逃してくれたらな」
それは誠意次第ですね、とどちらが悪党かわからない科白をまだ見ぬ色男はいう。
「もうひとつの顔ですよ。正妻の悋気を怖れたのか、子どもには堅気の道を歩ませたかったかしりませんが、十五年間赤の他人を貫いておいてルーシェが亡くなった途端に父親面をするのはどうかと」
「親が子を想ってなにが悪い。あいつは殺られたんだ。なにが酔っぱらって川に落ちた、だ。ちょっと調べたらすぐにわかったぜ。連中のなかに木っ端役人の親戚がいて、そいつが悪知恵つけると同時に裏から手を回して揉み消しやがった」
法の裁きが期待できねえならおれたちの流儀でやるしかねえ、とバーナムは歯を剥いた。
「仇討ちをとやかくいうつもりはありません」
「――?」
「わたしの元いた場所でも古くはそういう風習がありましたし、極論すると街のダニとダニが殺りあって数が減るのは慶賀です。少なくとも下手に更生されて堅気に迷惑がかかるよりはいい。ダニが更生したと酒場で吹聴する立場になるということは、真面目に生きてきたかたに割くべき資源を横取りしたことに他なりませんからね。――ただし、無関係の人を巻きこむのはよろしくない。師範代のピラトは百歩譲って監督不行き届きでいいでしょう。ですが、居あわせたわたしを口封じに殺ろうとしたのと、容易く殺れるとうぬぼれたのは見過ごせません」
ここで、ひと呼吸おくと、
「そこで精神的苦痛の慰謝料と経費であわせて金貨十枚を頂戴しに参上しました」
「お、おまえ――」
「おや、見栄を張っていても内証は火の車でしたか。それなら今から三十分かぎりの大サービス。特別に金貨九枚で手を打ちますよ」
なにやら、抗菌まな板や包丁研ぎをおまけしそうな口ぶりである。
「そ、そんなしけた金のためにおれの……おれの組織を……潰したと……いう、のか」
「変ですか?」
変に決まっている。
兄貴分の不条理な仕打ちに耐え、クソの役にもたたない親父にゴマをすり、金を引っ張るために醜女と同衾し、ライバルを蹴落として、抗争で敵をダース単位で潰してじぶんも深手を負い、多大の犠牲を払って上りつめた地位が、裏社会の顔役が、よもや日銭にも満たないどころかひと晩の飲み食いで消える端金で棒に振ることになろうとは。
バーナムは能面のような顔をしている。
わずかに動く表情筋が複雑な感情についていけなくて仕事を放棄した。
怒りがあった。
辛酸の日々が水泡に帰したのである。
怯えがあった。
バーナムの築いたものを金貨九枚とみなす美丈夫の底力に。
そして、こみあがるおかしさを抑えることができなかった。悲喜劇もいいところだ。
ケラケラと空虚な笑い声が室内に響く。
過度のストレスに脳が耐えきれなくなってバーナムは意識を失った。不摂生な生活で弱った血管が切れなかったのは奇跡だが、事後を考えると神に感謝する気にはなれまい。
「仕方がありませんね。家探ししますか。彼女のぶんも確保しないといけませんが――さて、おいくらほど用立てばいいのでしょうかね」
そういうと十握はバーナムに先立って夢の世界を旅する艶冶な女性を一瞥した。
初の濡れ場です
直接的な描写なしに雰囲気で粘ついた卑猥さが表現できたと自負しています(笑)。当然、アクションとおもって書きました。下手なノクターンより興奮できたのではないでしょう――おっと、他人さまを否定してじぶんを持ち上げるのは褒められたことではないですね。
刺青を筋彫りにしたのは、忙しくてじっくり彫る時間がなく、売れた今となっては表社会との決別の意味合いも威嚇も意味をなさなくなったのでそのままにしてあるという設定です。
それではまた次回、お会いしましょう。「プリズンブレイク」を観ながら。