胡蝶の夢
水のように透き通った酒を平らげて口許を拭うと槍持ちはおもむろにたちあがった。疲労と腹がくちくなったことで船を漕いでいる剣持ちを刺激せぬよう足音を殺して部屋をでる。
小便である。
上機嫌であった。
ここがなじみの酒場なら戯れ歌のひとつも口をつくところだ。
貴族の邸宅にあるような凝った装飾の朝顔で用をたして廊下にもどると遠くで明かりが漏れていることに気づいた。
槍持ちは首を傾げた。
「奇妙な家だぜ、まったく」
表稼業で金持ちの家々を訪れる槍持ちをして初めての経験であった。
外観からは想像もつかない大きさである。いや、大きすぎる。どこまでも続く廊下の先は暗くて判然としない。序列の高い貴族の邸宅に迷いこんだようだ。空間歪曲の術でも使っているのであろう。時折、感じる船酔いに似た奇妙なそれは自然法則をねじ曲げた代償か。存外に驚きが薄いのは生き馬の目を抜くラウドの──それも、裏社会の住民の性。すずらん横丁で経験済みだ。
物の少ない家である。
この手の広々とした家につきものの暖炉やマントルピースがないのは見せびらかす相手が不在のためか。が、しかし、通された板の間に椅子の一脚もないのは、一体?
空気の通りがいい造りは夏を旨としたらしい。
ラウドの雀たち──噂好きの事情通によると侠客のアーチーが、近頃、建てた木造の離れが同じコンセプトらしい。
ま、これは偶然の一致であろう。
人の考えることなど似たり寄ったり。どれだけ独創的にみえたとして、それは忘れ去られていたものをアレンジしたにすぎない、というのが神秘学の教えだ。
「まあ、いい。ちょっくら覗いてみるか」
酔いに気持ちが大きくなっている槍持ちは誘蛾灯に誘われる羽虫のように薄暗い廊下を進んだ先にあったのは厨房であった。
魔法使いの家らしい、宙に浮く光球に彼は目を細める。
グツグツと音をたてる大鍋からうまそうな匂いが漂っている。
「お酒のお代わりですか?」
ローブにエプロンという奇抜ないでたちのリタが訊く。
「それは、もう、充分に堪能しました」
槍持ちが表向きの稼業で培った笑顔を浮かべると、
「それは?」
「ちょっと早いですが夕食の準備を。──味見します?」
「それは、ぜひ」
ひょいと鍋を覗きこんだ次の瞬間、柔和な笑みを浮かべていた槍持ちの相貌が幽鬼のように白くなる。
声にならない声が唇から洩れた。悲鳴であった。
煮られていたのは男の生首である。大きく目を見開いたそれはいまわのきわにになにがあったというのか。いや、しりたくもない。これまで手にかけた者たちでさえ浮かべたことのない形相とあらば。
槍持ちがおもわず後ずさる。
悪疫に罹患したかのように震える姿に、
「ほんに大げさな人だこと」
カラカラとリタが笑う。
「すでに一部を召しあがったではないですか」
紅唇が紡ぐ言葉の意味を解した次の刹那、胃の残留物が不快感を伴って喉をかけあがった。
槍持ちは盛大に嘔吐した。
吐瀉物はリタの指摘通り一部──根本から千切れた指である。
形状の差異から複数人のものとおもわれる。
台座に緋色の石が鎮座する指輪が嵌められているのは左の薬指であろう。十握が身につけている実用的(?)なそれであれば文字や図形が刻まれている。
老人のものらしきシミのめだつ指があった。
女性のものらしきたおやかな指があった。
銀毛にびっしりと覆われたものは獣人の指か。
幼子のものらしき短い指も──。
他にもあった。
百足である。馬陸である。ゲジゲジである。
胃酸に侵されてなお蠢く多足類を目のあたりにして槍持ちが、再度、嘔吐する。吐瀉物が胃液と血の混合液のみになるとリタを睨んだ。
「化け物め」
「あら、怖い」
そういうとリタは肩を抱いてみせるが、言葉とは裏腹に短剣に映る相貌は冷ややかなままである。
怖れなど微塵もなかった。
それはそうであろう。
高位の幻術を行使できる者が野盗風情など歯牙にかけるものか。
「では、食後の腹ごなしといきましょう」
紅唇が神の奇跡を──呪句を紡ぐ。
あらかじめ呟いていたらしく、詠唱はひと言でことたりた。
呼応は一瞬の間があった。
それぞれは小さな音であっても幾千と重なれば大音声となる。
多勢に無勢で蹂躙される床の悲鳴であった。
ああ、厨房のどこにこれほどの数が潜んでいたというのか。天井からボトボトと落ちてきた、大鍋から這いでてきた、土間の固い土を押しのけて湧いてきた、おびただしい数の蟲々が槍持ちめがけて殺到したのだ。
足をのぼるそれを振り落として踏み潰しができたのは最初の数十匹である。
抵抗むなしく槍持ちは黒の奔流に呑みこまれた。
全身のありとあらゆる箇所を小さな顎が喰い破る。
絶叫が蠢く蟲の音を凌駕して室内を席巻した。
「心根の腐った人ほどいい声で哭いてくださる」
発狂はさせませんのでごゆるりと堪能ください、とリタはいう。
まるで十握が名づけ親であるレストラン──シュプールで演奏されるピアノの音色に接するかのように神妙の面持ちで慟哭に耳を傾ける彼女の双眸は広間の食事風景とは異なり、今度は明白な感情が──嗜虐心の充足からなる喜悦で溢れていた。
本当なら久しぶりに長尺で見た紅白の感想でも書くところですが、そんな気分にはなれませんね。
なんといったらいいか──凄い正月になりました。
地震の一報に驚いて、それから心ないSNSの書きこみに憤り、もし、読者で日本海側の人がいたらと心配していたら羽田の事故ですもの──。
暖冬だったのがせめてもの救いとしかいいようがない。
一日でも早い復旧を願ってます。
ささやかながら支援への謝意にコンビニで買い物をして募金箱にお釣りをいれてきました。
それでは、また、次回にお会いしましょう。
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こんな時でも私腹を肥やすことを至上命令に、震災支援とは名ばかりのほしいものリストをあげるボランティアマフィアに苦虫を噛み潰しながら。
追伸
正月らしく久しぶりにおそばを買いました。
成分表示の冒頭にそば粉がくる生そばです。
おいしかったです。なにかを褒めるときに別のものを引き合いにだすのはお行儀が悪いことを承知であえていわせてもらうとそば粉が二番手や三番手のカップ麺や乾麺とは、全然、違う。そばの風味がしっかりしてる。
どうしても生そばは他の麺類と較べて割高感が拭えないので敬遠しがちでしたが──つけあわせが難しいというのもあります──よくよく考えれば、それでもお店で食べるよりはリーズナブルなんですよね。
これからはたまの贅沢に買いたいとおもいます。