化外の民
強壮の語源は音である。
正しい音の調和が人をより高次の存在に高めるというのがピタゴラス教団の教えである。某ロボットアニメのように音楽の力を信じろということだ。
今となっては他愛もない世迷い言である。
屍肉にどこからともなく蝿が群がることから、蛆は無から湧くと信じられていたころの迷信である。
だが、これが剣と魔法のファンタジー世界であれば。
せいぜいが、ファストフード店でテンポの早い音楽にのせられてしらずしらずに客に早食いを強いるていどの力も、魔力の援用があったなら──。
上部に設置された魔道具の光が妖しく揺らいでいる。
明治時代のアセチレン灯をどことなく想起させるデザインのそれのガラスに封じこめられたオレンジ色の火球は、まるで、小躍りしているようであった。
火球も、また、ラウドの住民ということであろう。
ここはラウドでもっとも格式の高い劇場である。
貴族や大商人の支援もあって湯水のごとく金が注がれている。音響を最優先して木材は辺境のハワドからとりよせた。ラウド近郊のそれと較べて単価は五倍にはねあがっている。椅子やテーブルもそう、当代一の職人の特注である。収容人数こそ他の後塵を拝しているが、それは客層を意識してのことだ。そのぶんはチケットに上乗せしてある。馬車を停める駐車場や、付き添いが休憩する、もしくは予定より早く到着した主人が時間を潰す喫茶店など付帯施設も充実している。
ミュージカルが上演中であった。
着飾った観客が清澄な声に聞きいっている。
目当ては舞台の中央を陣どる歌姫である。特別ゲストである。王都からきた。そのため、今回は特に入手が困難なチケットになっていた。
その彼女の一挙手一投足に客が反応する。
綱渡りの人生で渋面を作ることの多い彼らが、コミカルな場面で腹を抱え、クライマックスでは滂沱の涙を流して哀恋に悲嘆する。
まるで、親に連れられて初めて劇場を訪れる子どもみたいである。
元いた世界の荒淫過脂肪剽窃文化人や仏蘭西風黄色水飲み鳥のように斜に構えて粗さがしに熱中する慮外者はいなかった。
こちらの世界において、かくも歌の力は偉大ということだ。
だが、どこにでも例外はいる。
大輪の花が目に鮮やかなカップを満たす琥珀色の液体に口をつける十握は浮かない顔である。無論、粗悪な紅茶を掴まされたわけではない。
対峙するクレアはガラスを一瞥して個室でよかったと安堵する。
階下で観ていたら場が台無しになっていたであろう。途中で退出する者がでるやもしれない。巷に十握好みという言葉があるくらいである。レストランしかり、釣り堀しかり、十握が手がけたものはのきなみ好評を博している。遠方から人が押し寄せる観光名所となりつつある。その十握があくびを噛み殺していたとなれば、駄作の疑いはまぬがれまい。少なくとも女性客はそう判断して吹聴するであろう。ひいてはミュージカル文化の衰退に繋がるやもしれない。
実のところ、それはクレアの杞憂であった。
元いた世界の小市民的感覚が揺曳する十握のこと、他の人たちが楽しんでいることに水をさすのは忍びないと愛想笑いを浮かべたに相違ない。
──万雷の拍手が劇場を席巻した。
緋色の緞帳がおりると十握は軽く背伸びする。
「さて、帰るとしましょう」
「待ってください」
早々に身支度をすませる十握を──観劇ということでサングラスをはずしていた──クレアは引きとめる。
「座主と主演のジェシカさんが挨拶にきます」
「それにはおよびません」
十握はにべもない。
「今後、会うこともないでしょう。心にもないおべんちゃらの礼におひねりを渡す役は他のかたにおまかせします」
「形式ですので」
「金を渡すだけなら代理でもかまわないのでは?」
「十握さんでないと駄目なんです」
「やはり、それが目的でしたか」
十握が苦笑する。
「ギルドの三階で話せば十分とかからないことを、わざわざ、劇場に誘いだして、それも、騙し討ちときた」
さて、落としどころはどこになるのやら、と十握は弄うようにいう。
「親しき仲にも礼儀ありといいますし、小指いっときますか?」
「ピアノが弾けなくなるのでそれは──」
「ハープに転向ですね」
「そう、大袈裟にとらえなくても」
クレアは手の甲で額に吹いた玉の汗を拭う。
「とにかく、会うだけでもお願いします」
「裏口がない以上、そうなりますね」
十握が肩をすくめると同時にドアを叩く音がした。
ラウドの住民らしく腰の低い座主と対照的に王都から招聘された主演女優──ジェシカは尊大な態度であった。
元いた世界の思想の偏った人たちが憤死しかねない毛皮のコートをまとっている。ルーン文字に似た判読不能の文字が彫られた白銀の指輪は護身用か。毛皮にあわせた装身具であれば一般人の給料の三ヶ月ぶんなど軽く吹き飛ぶ石が──さしずめ、紅玉や翠玉あたりが嵌めこまれていたはず。これは贅言だが、元いた世界でもっとも珍重される宝石──金剛石はこちらだと人気はいまひとつである。ギムレット同様、まだ、ラウンドブリリアンカットには早い。
この部屋でもっとも価値のあるものを纏っているのが彼女である。が、しかし、中身までふくめれば二番手に甘んじる。
「さっそく腕のほどを見せてもらおうかしら」
「ちょっと、待ってください」
挨拶もそこそこにとんでもない要求をするジェシカに泡を喰ったのは座主である。
ラウド一の色男に会ってみたいとはいいにくくて、ラウドを代表する凄腕の冒険者を紹介してほしいと婉曲にいってきたとおもったから骨を折ったのである。
それで、チケットを用意してギルド長に折り入って頼んだ。
トラブルは困る。いかに芝居関係者が厚遇されるラウドとはいえ、限度はある。時の氏神(仲裁者)は期待するだけ野暮だ。ラウドで手をだしてはならない危険人物のひとりである十握とギルドに睨まれるということは街から石持て追われることを意味する。
「ここで荒事は困ります」
「わたし、弱い男に興味はないの」
座主の懇願を無視して、ジェシカは弄うように十握を見る。たいした玉だ。見慣れたクレアでさえ、ともすれば蕩然と見惚れる凄絶の美を前に、頬が赤みを帯びるていどですんでいる。
「強いのは色恋だけじゃないといいのだけど」
「型でもお見せしましょうか?」
「それもいいけど、実力をはかるにはたちあいが、一番、わかりやすい」
「その点に関しては同意見ですね」
「気があうわね」
「ええ、この後、お食事でも?」
「残念ね。浮き世のしがらみってやつで、むさ苦しいおじさんたちに囲まれることになっているの」
指が鳴った。
取り巻きのひとりが前にでる。
金髪の中肉中背の男である。茫洋と眺めていた十握にしるよしもないが、舞台でトンボを切っていた端役である。
芝居と違って剣を構える姿がさまになっていた。
実質、こちらが本業なのであろう。
「ルールは、そうね、現状回復できるていどにおさめるということで」
「人使いの荒い上司を持つと大変ですね」
「まったくです」
金髪が小さく頷く。
十握が居合い腰に構える。
だが、繊手が握りしめるは短剣である。コンマ数ミリが生死をわけることのある真剣勝負でこの明白な差をどうやって埋めるというのか。
キンと空気が凍った。
揺らめく炎が十握の刀身を照らした。
鈍く光っていたのは須臾ともいえる一瞬の出来事であった。
すでに刀身は鞘におさまっている。
傍目には少し抜いてもどしたただけに映る。
「あの、いまのは?」
代表して訊くクレアに十握は微笑する。
「斬りました。三分ほどじっとしていればくっつきます」
「なにを莫迦なことを」
ハッタリにつきあってなどいられんとばかりに金髪が歩を進めた次の刹那、緋色の切りとり線が床にあらわれた。
苦鳴が耳朶を打った。
金髪が左手を押さえて歯を食いしばる。
落とした剣のかたわらにある肉片は──小指だ。
階下の会話がやけに大きく聞こえる。
声をあげる者はいなかった。
想像だにしない結果に誰しも思考が千路に乱れている。
「これで納得いただけましたか?」
必然的に、唯一、落ちつき払っている十握が話を進める。
「ご不満があるというのでしたら、もう一度、お見せするのはやぶさかではありません。そこのテーブルでも斬りますか? ただし、お恥ずかしい話ですが剣は不得意でして──狙ったもの以外も斬ってしまうかもしれません」
「もう、充分よ」
血相を変えてジェシカがとめる。
「おわかりいただけてなによりです。で、ご用件は?」
「あなたを護衛に雇いたいの」
「それは彼でも務まるのでは?」
「わたしは一番が好きなの」
「気があいますね。わたしも一番は好きです」
だから、気がのらないのですよ、ちやほやされて調子にのってじぶんは特別な存在と錯覚して他人を顎で使う演者は唾棄すべき三流です、と十握は辛辣だ。
「野蛮な冒険者の分際で」
憤怒がジェシカの相貌を緋に染めた。
「わたしの依頼を断るというの」
「いえ、気がのらないといったまでです。どうしてもというのでしたら、そうですね、菓子折り持参でギルドを訪れて非礼を詫びるなら考えなくもないです」
「十握さん」
クレアがふたりの間に割ってはいった。
「お願いですから、ここはギルド長の顔をたてて乱暴な言葉づかいは控えてもらえませんか。便宜上、わたしたちは臣下ということでここにいます」
ハルコン王国一の巨大組織、それもラウドのトップともなれば序列は男爵か子爵に相当する。ふたつあるのは勤続日数の違いである。無論、序列の高いほうがなにかと役得がある。元いた世界の町奉行が旗本から大名にとりたてられるのと似た構図である。そして、激務ゆえにそれが茨の道であるのも同じだ。
「その心配は無用かと」
「──?」
十握が背を向ける。
一周した時にはスプリングコートをまとっていた。
当然、布地は黒である。
一体、どこに隠し持っていたというのか?
だが、それを気にかける者はこの場にいない。
クレアが息を飲んだ。
ルビーを嵌めこんだような深紅の瞳に描線の龍が映る。
それはコートの胸元を彩る紋章であった。ラウドに屋敷を構える貴族のなかでもっとも序列の高いゲセリット侯爵家のそれである。
「定期的にパンを届ける縁でいただきました。これを着ている間はゲセリット家のお身内扱いになるそうです」
そういうことですので悪しからず、と十握は悠然と部屋を後にする。
クレアが座主に一礼すると後に続いた。
ジェシカを無視したのはせめてもの反意か。
──帰るまでが観劇とのことで馬車で家路につく。
「まさか、侯爵家がでてくるとは予想外でした」
クレアが呟く。
「ミュージカルのミの字もだしたことのない、ラウドの住人にしては珍しく芝居に疎いクレアさんからいただきもののチケットがあるからと誘われれば、なにか裏があると疑ってかかるのが自然です」
「たしかに、無理がありましたね」
「なぜ、こんなまわりくどいことを?」
「ギルド長の考えです。腕を見てから依頼するかどうか決めるからとりあえず劇場までこいといわれて十握さんが素直に従うはずがないと」
「ギルド長らしからぬ浅慮です」
「いい顔がしたかったのだとおもいます」
「ラウドは役者にとって住みよい街ですからね」
「ひとつうかがってもよろしいですか?」
「ジェシカさんでしたか、彼女を食事に誘ったのはちょっとした社交辞令です。本心ではないので安心してください」
クレアは戯れ言を無視して、
「付き人の小指を斬り落としたのはどうやったのです?」
「見ての通りかと」
「見えたのは剣を少し抜いただけです。もし、抜いていたとしても届く距離ではありません。──魔法ですか?」
「それなら、糸を張りました」
「──小細工を弄するなんて十握さんらしくない」
クレアの眉根が寄った。
「まさかですが、剣でたちあっていたら苦戦する強敵であったとか?」
「剣は不得手ですから、現状回復できるていどといかずルール違反で負けになっていたかもしれませんが──」
十握は嘯く。
「場所柄ですかね。わたしもけれんみたっぷりの芝居がしたくなったのですよ」
フェミニズム界隈がすごいことになってますね。
もしかすると後の世でドキュメンタリー映画になるような偉業にたちあっているのかもしれません。ネットの力は凄いです。報道しない自由を行使していた某新聞が遅まきながら擁護に動きだしましたが焼け石に水状態です。
ちょっと不謹慎かもしれませんがワクワクして動向を追っています。
たったひとりの男がじぶんの趣味に綾つけるのが許せないとたちあがり、多くの人を巻きこんで税金を喰いものにする巨悪を潰すなんて痛快じゃないですか。
動機といい反骨精神といいハードボイルドの主人公です。
ぜひ、オレンジの皮を剥きながら悪態をついてもらいたいものです。
それでは、また、次回にお会いしましょう。
商魂の怪物──赤木レイアさんの動画でおさらいしながら。