宴の始末
探偵はバーにいる。
トラブルシューターはカジノのバーカウンターだ。
低レートのテーブルのおそらく初心者らしきグループのサイコロやトランプの数に一喜一憂する姿を肴に静かにグラスを傾ける。バーカウンターは貸し切り状態である。喧騒のなかの孤独が懐かしくて十握のお気にいりの場所である。
依頼人は予定より五分早くあらわれた。
ドレスコードを意識してか、あるいは、同情を誘う必要がなくなったからか、ソフィーの喫茶店で初顔あわせした時のよれよれのみすぼらしい格好とはうって変わって、その中年女性は上等な布地に身を纏い、贅沢に香油を塗ったブラウンの髪はぬらぬらとぬめ光っている。
使われる者というより使う者の佇まいであった。
夜の散策者──パイターの素行調査を依頼した使用人である。
挨拶もそこそこに、
「おおさめください」
ここだけは苦労の跡が色濃く残る皺深い手が檜の一枚板に置いた持参人払いの小切手に、十握は興味もなさげな一瞥をくれると、
「額面がひと桁間違ってますよ」
「わたくしどもの気持ちです」
「悩みますね。尾行のついでと調査対象者に絡んできたチンピラをかたづけた報酬にしては高すぎますし、かといって、命の代償と考えたら安すぎます」
「──?」
「ご安心ください」
十握が微笑した途端、依頼人の相貌が緋に染まった。
オニキスを嵌めこんだような黒眸に浮かぶ中年女性は──カタリナと名のった──造形の女神の寵愛を一身に受ける美丈夫の魅力に恍惚とたちつくしている。
耳の裏まで赤い。
初々しい反応であった。
酸いも甘いもしりつくしたベテランが恋に身を焦がす少女にもどっている。
しらぬは幸いかな。
ソフィーやパメラなら嫌な予感が氷と化して背筋を這うところだ。
女であれば老いも若きも見惚れる柔和な笑み。だが、しかし、近しい者ならわかる。慈愛に満ちたものでは──断じて違う、逆だ。無知蒙昧の輩を言葉巧みに善意の敷石を歩ませて地獄へ誘うメフィストフェレスのそれである、と。
「楽しんでいられるかたがたに冷や水をかけるような無粋な行為はしません。あなたは五体無事に帰ることができます。心配するのはその後です」
ラウドは生き馬の目を抜く街です。田舎では想像だにしない悲劇に見舞われることはままあります、と十握は神妙な顔をする。
グラスの氷の爆ぜる音がやけに大きく聞こえる。
こういう状態を天使が通るというのであろう。
カリビアンスタッドポーカーのテーブルから届く歓声は大物手で別荘の頭金を稼いだ幸運の持ち主の誕生を告げている。
「──マフィアみたいな口ぶりですね」
絞りだすような声であった。
「ええ、今のは意識しました」
これは贅言だが、ヤクザとマフィアとギャングの違いを十握はわかっていない。適当に使っている。ヤクザとマフィアが組織だっていて、マフィアがとりわけ血縁にこだわっていて、ギャングは烏合の衆くらいに茫漠ととらえている。一番、詳しいはずのヤクザとて博徒と神農系の違いとなるといまひとつである。賭場と祭りの屋台(庭場)の家業違いは江戸時代のことである。売掛金の回収や競売物件でバッティングしたりしないのか? 元いた世界で接点といえば、なぜかサウナにいた彫り物持ちとしばらくふたりきりの時間をすごしたくらいのにわかの知識などこのていどである。無論、このことで頭を痛める気は毛頭ない。
「少々、四方山話におつきあい願えますか。立ち話もなんですからお座りください。──こちらのレディーに同じものを」
「あの、お酒は──」
「中身は紅茶です」
ギムレットには、まだ、早すぎるので、とこちらの誰にも理解できない弁明をすると十握は話を続ける。
「あなたと同時期に別口の依頼がありました。娘にかかった呪いをなんとかしてくれという風変わりな依頼です。どうも、この頃は運に見放されているようでして、これもわたしをたばかったものでした」
たばかったの言葉に反応する依頼人──カタリナに、嘘がばれたところで契約解除で着手金をとられて済む三百代言と違って、トラブルシューターはしっかり叱るということをご存知ないかたが多くて困ったものです、と十握はわざとらしく肩をすくめる。
「虚業家の性で山ほど恨みを買っていて呪われているのは事実ですが、娘の食事に呪物をしこんだのは依頼人です。自作自演は望まぬ縁談を潰すためです。葬式で万歳三唱がおこりそうな忘恩の徒でも娘にだけは人なみの情が残っていたということです。わたしに白羽の矢がたったのは信憑性を高めるためです。虚業家とそのとりまきの医師が口を揃えたところで、月末に水商売の女性から届く恋文の信憑性ほどもない。現に、彼の出資者であり許嫁の父親(?)というかたがわたしに接触して、わたしが事実だというと納得していました」
見栄を張らないとならない人々はなにかと気苦労が絶えないものです。身分の卑しい者を娶る際は金を積んで親戚なり生活に窮している泡沫貴族の猶子という形式をとらねばなりません。穢れ持ちなどもっての他だということはあなたも、重々、承知のはずかと、と十握は酷薄な笑みを浮かべてカタリナを見る。
「あなたはパイターさんの乳母だとか」
十握は返答を待たずに、
「うまく考えましたね。長子が不治の病にかかり、第二子のパイターさんが、一躍、跡継ぎの最有力となりました。が、しかし、残念なことにパイターさんは妾腹でこれといった後ろ楯がない。三男の母親は領内の有力商人の娘で影響力がある。こんな時だからこそリーダーシップを発揮すべき父親はショックのあまり臥せりがちときた。これでは、近い内にパイターさんは不慮の事故や急性の病気で突然死ということになりかねない」
そこであなたは一計を案じました、と十握は続ける。
「パイターさんをラウドに留学させる。警備が手薄になるのであちらは大歓迎です。喜び勇んで刺客を送ることでしょう。それが、墓穴を掘るともしらずに。あなたが素行調査という名目で担ぎだしたトラブルシューターはサービス精神が旺盛です。刺客を排除するにとどまらず、雇用者責任を追求します。外戚が身を引けば三男は羽をもがれた鳥も同然で跡継ぎの器ではありません」
いくら神輿は軽いほうがいいとはいえ、尻の穴が排泄専門と信じて疑わぬ坊やの四男では傀儡の意図があからさまで家督相続の認可は難しいでしょう。かくして、領内に平和がもどる、めでたしめでたしです、と十握がいう。
「──別口の依頼人はどうなりました?」
「理由はさだかではありませんが、どうやら屋敷を守っていた術式になんらかの不具合が生じたようでして、それで本物の呪詛の餌食に──」
そうですか、とカタリナは深々と息を吐いた。
十握に向けた双眸は強靭な意思の力を湛えて炯々と光っている。
「では、わたしの命で罪を贖ということで、坊っちゃんは──」
十握はカタリナの懇願を無視して前を向く。
「バーテンダーのあなたにこんなことを頼むのは心苦しいのですが、次のルーレットの出目が赤か黒か紙に書いてわたしに届けてもらえませんか」
「お安いご用です」
バーテンダーが拭いていたシェイカーを置くとカウンターをでる。
ちょっとした遊び心です、と十握はカタリナに説明する。
「ここはカジノです。結末を運に委ねてみるのも一興かと。赤と黒、どちらになさいますか? 時は金なりですので決断はお早めに」
カタリナが目を閉じる。
デスゲーム系の物語なら描写にたっぷりとページを割く場面である。
もしかすると、アドレナリンだかエンドルフィンだかエフェドリンだかしらないが脳内物質の働きで時の流れを遅く感じているのかもしれない。
だが、考えようと葦は、しょせん、葦である。
賭博の神はそんな人の思惑を鼻で嗤う。
確率の収束──二分の一は長期的に見ての話である。十回連続赤や黒に偏ることは珍しくもない。元いた世界のなぜか遊技場という扱いのパチンコ屋では、毎日、確率の三倍ハマりがおきている。それで起死回生の当たりを掴む者がいる。
射幸心を抑える大義のもと、規定回数に達すると強制的に当たるシステムを搭載したメーカーの、涙ぐましい努力に応えようと客がより偉人のブロマイドを溶かす光景に熱いものがこみあがる十握は、誰かのアシストになるのが癪でコンビニのちょっと高めのくじに二の足を踏む慎重派である。
人智で出目を予測するなど不可能な芸当である。
壁や装飾品にそうとわからぬように刻まれている魔法陣が念動力などのオカルトを封じている。惚れた十握のためとあらば自然の摂理を平気でねじ曲げる月をもってしても介入は不可能であった。
「不参加はペナルティを認めたことになります。──その場合、咎を背負うのはパイターさんになります」
「すべてわたしの独断で、坊っちゃんは預かりしらぬことです」
「そろそろ時間です」
ディーラーが円盤に玉を投じた。
「──黒──いや、赤でお願いします」
十握は微笑を湛える。
「では、一世一代の大勝負をお楽しみください」
ベルの音がベッドの終了を告げた。
円盤を逆回転する白い玉の動きに熱い視線が注がれる。
カタリナの祈る手が小刻みに震える。
歓声は控えめであった。
傍目には誰が勝者で誰が敗者か区別が判然としないのは常連の習性である。長丁場の戦いで感情を露にしていたら身がもたない。それに、浅い時間ということで安い色のチップが目だつ。一般的な職人の一日の働きに相当する額面であろうと経済の上澄みをすくう彼らには端金である。情熱はこの後の手本引きやバカラにとってある。和気あいあいとした雰囲気であった。
もどってきたバーテンダーがさしだす紙片を受けとると十握は息を吐いた。
「こうもついてないとさすがに厄払いを考えますね」
「──?」
固唾を飲んで見守るカタリナに十握は莞爾と笑う。
「賭けはあなたの勝ちです。幸運を噛みしめてお帰りください」
深々と一礼してカタリナが去ると、
「粋な計らいですね」
バーテンダーが感心する。
ふたつ折の紙片に書かれていた文字は黒であった。
「胴元は負ける勝負をしません」
十握はグラスを傾ける。
「彼の地の借財はわたしとグレッグさんで買いとりました。ギルドとラウドの役人と本家筋の根回しと領民の手なずけはすんでいます。実質的な経営者におさまったということです。命の代償を払い終えるまでは──王都での体面を保つのがやっとで夢見た生活とはかけ離れたものになるかと」
「それでもあのかたは満足するとおもいますよ」
「やはり、そうおもいますか?」
「貴族の世界で乳母は母親も同然──いや、あの熱のいれようから察するに乳母というのは建前でもしかすると本当の──」
「おかわりをいただけますか。こんどは本物の」
「おや、ギムレットというものに早いのでは?」
「仕事は終わりました。──祝杯におつきあいください」
「ええ、よろこんで」
「では、若き次期領主の門出に」
グラスが小気味のいい音をたてた。
遅くなってしまいました。
そのお詫びといってはなんですがちょっと役にたつ知識を披露したいとおもいます。
ああでもない、こうでもないとネタが浮かばずに液晶とにらめっこするわけですから眼精疲労になります。で、目薬をさすわけですが、気になって調べたところ意外なことがわかりました。なんと、点眼した後は一分から五分ほど目を瞑るのが正しい作法らしい。ええと、そうだとすると、今までしてきたことは? ちょろっと目をかすめただけ? 悲しいかな、重ねて悲しいかな、ただの無駄遣いだったことになりますね。こういう大事なことはもっと宣伝してくださいよ。
で、使う目薬は刺激の弱いものがおすすめです。五分待つと結構染みます。
これが眼精疲労に困っている人のお役に少しでもなれたら幸いです。
それでは、また、次回にお会いしましょう。
「ファーストペンギン」を観ながら。