夜なべ
夜の静寂のなんと雄弁なことよ。
十握は窓に目をやる。
藍色でない本物の夜空に星々が燦然と輝いている。
大きかった。
北極星にいたっては元いた世界の獅子座のアルファ星の倍近くある。
元いた世界も産業革命以前の蝋燭が貴重な光源だった頃はこのような状況だったのかもしれない。これくらいにぎやかであればドルイドの神官が空の墜落を怖れたのも頷ける。
行きかう酔客は浮かれている者、無理して飲んだ者、アルコールは景気づけと鼻の下を伸ばす者とさまざまだが、エイリアの店が近づくと素面にもどったかのように背筋を伸ばして足早に通りすぎるのは共通している。
美姫の熟寝を妨げてはならないという騎士道精神のあらわれか、それともかけ声ばかりでグダグダの喧嘩を店先でさらしていた半端者十人が、
「本気でやらないから長引くのよ」
運悪く虫の居所の悪かったソフィーによって――父親と揉めて家出していた――離乳食から仕切りなおすことになった件が一罰百戒となったか。妹想いの兄が裏からプレッシャーをかけている可能性も充分ありえる。
時折、暗がりで靄のようなものがあらわれては消えていく。十握は目を瞬いた。一瞬だが、断末魔の形相に見えたのである。そして、悪鬼の形相の先にある街灯の支柱には他のそれとは違って複雑な図形が刻まれていて……。十握は頭を振った。答えのでないことを考えても寝つきが悪くなるだけである。シミュラクラ現象ということにしておく。
十握はカーテンを閉めた。
覗きは性にあわない。
紙コップのコーヒー一杯で長居するじぶんを棚にあげて、人間観察と称して他人を値踏みする輩を見かけると安中散が欲しくなる十握は、寂しげな裏通りを歩いていて向こうから通行人がくると妙に身構えてしまう落ちつきのない男である。
暇を持て余していた。
こちらの世界は娯楽が乏しい。
ネットもゲームもテレビもラジオもない。図書館の本は貸し出し禁止である。
冒険者らしい余暇活動となると、ギルドの一階で安酒にありつくか、奮発してキャバクラみたいな店で高い酒を飲むか、娼館で線香が燃え尽きるまでの恋に励むか――。
どれも今ひとつ食指が動かない。
元々、十握はビールひと缶で酔う下戸で、誘われれば付きあうがじぶんから飲みに行きたいとおもうことがなかったので、劇的な体質改善がなされた今でもそれが揺曳している。
娼館は問題外。
お忍びに不向きな容姿である。
そこに通ったら期待されているエイリアへの虫除け効果が薄れてしまうし、エイリアやソフィーもいい気分はしないだろう。頭ではそういう生き物だと解していても生理的嫌悪が湧くのはやむをえまい。
受肉した肉体があまりにも美しすぎたせいか異性への関心が薄れている。
そして極めつけは海千山千の政治家や財界人ですら同衾した敵娼の前では口が軽くなるのである。根っからの庶民である十握に素性を隠し通す自信はなかった。
後はギャンブルくらいである。
これは興味がわいたが、調べてみるとクラップスやチンチロリンのような運任せ、人や小動物を戦わせるようなおよそ知的とはいいがたいゲームばかりで断念した。気楽に遊べた、そのせいでインフルエンザで休んでた時に勝負して降段したネットの麻雀を懐かしい。未練がましく調べた結果、どうも頭脳戦がものをいう知的なギャンブルはあるにはあるが、それは貴族の特権で、下々の者に例えギャンブルでも要らざる知恵をつけさせるのはよろしくないという封建社会らしいいかにもな理由で秘匿されている。
――十握はタライを床に置いた。
その隣に椅子を置いて座る。
あてがわれた二階の部屋の他の調度品と較べて革張りと分不相応に豪華なのは、蕎麦屋の籐の椅子に毛の生えたような安物では座り心地が悪いと十握が身銭を切って贖った品だからである。
十握はたちあがった。念には念をいれてドアの前にベッドをずらすと椅子にもどる。
鍵付きの引きだしに手を伸ばした。
取りだしたのは学校にあるようなもっともシンプルな形の蛇口である。
十握が依頼して作ってもらった品である。
どこに頼んでいいのかわからなかったので武具屋のバッカスを介した。複雑な形状に作れるかどうかは半信半疑であったが、そこは魔法が幅を利かせるファンタジーの世界。イラスト通りの仕上がりに十握は満足した。
十握はゆっくりと深呼吸する。
気――魔力をこめながら蛇口を捻ると勢いよく水がほとばしりタライに溜まる。
そっと指ですくうと舐める。
普通の水である。うっすらと薬品臭がするのは水道水をイメージした結果だが――現在の水道水は行政の努力で改善されているが、意識高い系とウォーターサーバーを扱う業者の洗脳は強固だ――懐かしさもあってそれが好ましくおもえる。
もう一度、蛇口を捻る。
タライから湯気がたちのぼる。
お湯である。
成功に十握は気分をよくした。
これで気楽に水やお茶が飲めるし、温かいおしぼりで体を拭くことができる。
身体強化魔法の副次的効果で体や服についた汗や埃はたちどころに分解されるが――刀についた血潮も――風呂への渇望はある。
温泉が湧く一部地域を除いてこちらの世界に入浴文化は広まっていない。裕福な貴族や商人でも安アパートのユニットバスに毛の生えたていどの部屋で温水を浴びるのが関の山である。庶民は水浴びか、奮発してサウナである。サウナは入館証が必要な図書館とは違って本物の公共機関である。料金が抑えられていて誰でも気軽にはいれる。聞いた話では談話室が設けられていて飲食の持ちこみも可能らしい。こちらの世界にもパンとサーカスがよくわかっている為政者がいるようだ。
十握がしているのは魔法の実験である。
余暇活動である。
頻闇よりいでしとか、五月蠅なすだとか、ミカエルはウリエルなり、ウリエルはミカエルなり、ふたつはひとつなりだとか、格調高い文言を詠唱して無から水や炎を生みだすことに心理的ストッパーがかかっているとして、刀を強化することができるのであれば――物に能力を付与できるのなら、形質の似たものは同じ霊力を有するという類感魔術(類感呪術ともいう。詳細はジェームズ・フレイザーの金枝篇に委ねる)に倣って、イメージしやすい物があればその性能を再現できるのではないかとおもいついたのである。ひらたくいうと魔術の両輪は魔力とイメージ力。凡夫より魔力を蔵する十握なら蛇口というわかりやすいアイコンを介せば水魔法が使えるのではと考えたのだ。
これが三つ目の成功例である。
まずは光あれ。蛍雪の功は柄じゃない。
天上に吊るされたガラス球が煌々と光を放っている。元いた世界の照明と遜色ない輝度である。無論、ガラス球は電球に似せた形状である。紐を引っ張ってオンオフにする機能は無理だった。初めて使用した時は夜が明けても灯り続けて焦って引き出しに押しこんだが――男やもめになんとやらでエイリアやソフィーが気を利かせたり、妹への愛を拗らせた貴族さまの手先が侵入しないとも限らない――気をこめてオンにすると同時に消灯時間をイメージすることで備えつけを可能にした。
二番目はその明かりを外に漏らさないために遮光性を付与したカーテンである。
今のところは三勝一敗と好成績である。
失敗はゲーム世界の定番の収納魔法である。某猫型ロボットを参考に半円形のポケットを作ってはみたものの、空間を歪曲するイメージが掴めなかった。あきらめてはいない。あきらめたらそこで試合終了なので別の作品を参考にするつもりである。
公にするつもりは、無論、なかった。
傾城の言葉ですら過小評価の誹りは免れない容姿を授かったのである。禍福は身を亡ぼす。
結果に満足した十握はベッドに潜った。
元いた世界では睡魔がくるまで漫画や本を読んでいたので明るくないと眠れないのである。
不眠症はなり変わっても続いている。
断片的ではあるが、以前に読んだ漫画を回想して退屈な時を耐える。
なにも考えていないと、苦い記憶がおもいだされて赤面するから必死である。
一時間ほどして十握が薄く寝息をたてた頃、遠くで酔っぱらいの声がした。
それは悲鳴であった。
命の終わりをしらせる声であった。
特に補足することはないので――だったら書かなければいいというのは野暮ですよ――物語を書くにあたって心掛けていることを話したいとおもいます。
なるべく風化しづらいように流行りものやネットのスラングは避けてます。
三年後に読みかえしても古臭さを感じさせず、楽しめていただけたらいいなという考えです。
一読したかたならわかるとおもいますが、基本的に子供向け、大人向けの考えはないので三年分の成長にも耐えられるかと。
そもそもハードボイルドの主人公が最新ガジェットを使いこなしているのも変ですし(笑)