慟哭は密室のなかでですわ
琥珀色の液体はつむじをスタートしてこちらの世界の住民の特徴である高い鼻を起点にふた筋にわかれると顎を伝った。
不摂生な生活が祟って顔色はくすんでいる。極度の貧乏暮らしというよりは、野菜や果物に金をまわさず酒を優先した結果であろう。使う暇のなかった得物は上物で手入れが行き届いているのがなによりの証左。貧すれば鈍する。弱ると人は往々にして選択を間違える。娯楽の乏しい世界ゆえに酒で身を持ち崩す者は多い。
荒れた肌にアルコールが染みる。空を舞う蝶はこれが夢であることをしる。痛みに長髪が飛び起き──いや、頑丈な麻縄が椅子との離別を拒絶した。
「昼寝の時間は終わりだ」
眼前でサボンが皮袋を傾けている。
「てめえ」
憤怒で相貌が緋に染まったのは一瞬のこと。サボンの背後から手をふるソフィーに黄色をすっ飛ばして青のそれとなる。これが信号機なら欠陥品だ。
「元気があるのはいいことだ」
皮袋を捨てると、サボンは指を鳴らして長髪の反応を見る。
ほう、と感嘆を洩らした。
「気絶するほどの衝撃を頭に喰らうと往々にして目が覚めても話が通じねえ時があるから一抹の不安はあったが──。やっぱり、あれか、九九が六の段でつかえる低能は脳が海綿みたいにスカスカでクッション性が高いとか」
「おちょくってるのか」
地を這うような低い声。やはり、九九が六の段でつかえる低能はお気楽だ。椅子ごと縛りつけられている状況がなにを意味するのか、凡夫なら早々と股間の布地を黒くする場面である。
「いったろ、元気があるのはいいことさ」
長髪の背後にまわると耳打ちする。
「お互いの不幸な時間を減らすために順を追って説明するから、まあ、聞け。ここは元は賭場だ。そら豆の数当てや虫を競わせる小博打だったんだが、誰かさんの影響で客足が遠退いて立ち行かなくなった。で、その心の広い誰かさんが同業圧迫は心苦しいとさしのべたのが淫ら夢だ」
長髪の肩を揉む手は荒事に従事する者としては存外にきれいであった。
「その誰かさんの魔力と知人の調香師のあわせ技で客に好みの夢を見せる。ま、場所柄、ここはエロに特化だが。郷里のええと、カラオケ? 違うな、それは別口だ。個室ビデオ? とかいうのを参考にして、財布の中身と反比例して性欲が有り余ってる野郎の暴走抑止の狙いもあるといってたっけ。──で、夢の世界のことだ。誰憚ることはねえ。明晰夢と違って没入度は高い。ひと晩で金貨十枚はかかるような上玉とおもうがままとくれば、そりゃ、興奮するわな」
サボンは壁を叩いた。
「身も世もなくバカでかい寝言をいう奴が多いから防音はしっかりしている。ちょっとした意思の疎通にもうってつけってわけよ。だから、おまえがどんだけ哭こうが喚こうが世はすべてこともなしってわけだ」
前置きはすんだから本題にはいるぜ、とサボンはいう。
「おまえの髪の色はなに色だ?」
「──?」
ピシャン、と頬が鳴った。
「髪の色は?」
「てめえ、なにしやがる」
再度、頬が鳴った。
「髪の色は?」
「そんなもん見りゃわかるだろう」
「髪の色は?」
頬の鳴る音に続いて、サボンが質問を繰り返す。
「──茶色だよ。それがなんだっていうんだ」
抑揚のない、機械的なやりとりに長髪は怯えを隠せずにいる。
長髪はゴロツキである。それなりに場数は踏んでいる。拷問まがいの経験もある。薬で脳が溶け崩れた兄貴ぶんに横領を疑われたことも、シルバー通りのホステスを引き抜いたと拉致されたこともある。いずれも、濡れ衣ですぐに疑いは晴れて命に別状はなかったが、その時の相手は嗜虐心の充足に相好を崩すか、険しい顔で罵詈雑言を吐くかのどちらかであった。
サボンは初めてのタイプである。未知の恐怖があった。
「では、目の色は?」
「もう、まだらっこしくて見てられない」
ソフィーが唇を尖らせる。
「わたしにやらせて」
「いいところなんだから話の腰をおるなって」
「髪の色を訊いただけじゃない。いいから、わたしにまかせてよ。得意の鼻歌を一曲歌いきる前に終わらせるから」
「清掃代は別途かかることを忘れちゃいないか?」
「時は金なりよ」
「影響うけすぎだぞ」
「あら、異をとなえるわけ?」
ソフィーが弄うようにいうとサボンは肩をすくめた。
「こっちまで勝手が狂ってきやがる」
上司の上司の口癖となると無下にはしにくい。
「じゃ、そういうことで」
「まあ、待て。こいつに決めさせてやろうじゃないか」
一生に関わることだしな、とサボンが長髪の正面にたった。
「離乳食から仕切り直したいか?」
「──?」
「あの女が尋問するってことはそういうことさ。クズが唯一の取り柄の腕力を失ったら世間の風は冷たいぜ。今まで足蹴にしていた青瓢箪にもペコペコ頭をさげなきゃ命に関わるときた。まったく、想像しただけで気が滅いる」
「ボンボンを狙ったくらいで……そこまで……」
「相手がラウドの副長官でも同じことさ」
サボンの口の端に冷笑が広がる。
「彼女は平和主義者じゃないから喧嘩はしないんだ。この意味わかるか? 途中で謳ったところでやめねえってことだ。利き手は潰され、利き足の腱は切られる。骨折は数しれず。爪は剥がされ、歯は全本引っこ抜かれる──ま、これは怪我の功名で落ちぶれたおまえが日銭を稼ぐ武器になるかもしれねえが」
ちょいと早いが潮時ってことさ、とサボンはいう。
「さんざか、突っこんできたんだ。なかには姦ったのもいるだろう。天罰だとおもってむさ苦しい野郎に尻をさしだすんだな」
「──しかし」
しかしも案山子もあるか、とサボンが畳みかける。
「いいか、おまえが義理堅く黙秘を貫けば依頼人は感謝するだろう。だが、それに見合う報酬は果たして……。おれなら万単位の民を束ねる領主さまでもご免だね。──で、どうする? 忠義を貫くというのなら尊重しておれは引っこむが」
「ねえ、ここって猿ぐつわとかある?」
ソフィーが訊く。落としたイヤリングを尋ねるような気さくさであった。
「店員にいえば持ってくるさ」
宿代の節約に露出過多の女性を伴う者や、ふたりのように腹を割って話しあいをしたいという者の両方の希望をかなえるためと小道具は充実している。
「そういう趣味があるとは意外だな」
「舌を噛みきられたら面倒だからするだけよ」
「嘘つけ。早々に白状されたら興ざめなんだろう」
「いいじゃない、過程を楽しむことは大事よ」
違えねえ、とサボンは首肯する。
「さて、時間切れだ。後は若いふたりにまかせて邪魔者は引っこむとしますか」
「じゃ、猿ぐつわとってきてよ」
「お安いご用だ」
サボンは踵を返す。
「ま、待ってくれ」
長髪が悪疫に罹患したかのように震える。
「こんなことで人生を棒に振ってたまるか」
「だったら、質問に包み隠さず応えろ。今なら出血大サービス。通常、小指の一本ももらうところを、なんと、所払いで勘弁してやる」
「ありがてえ。なんでも訊いてくれ。初恋の相手から親父の浮気相手と寝た時のことまですべて話す」
「懸命な判断だ」
サボンが莞爾と笑うと後ろ手で親指を上にする。
元いた世界でいうところの、いい警官と悪い警官である。
相反するアプローチで対象者を混乱させて口を割る尋問のテクニックである。
とはいえ、ハッタリではない。必要に迫られれば──長髪が存外に依頼人おもいであれば実行に移している。話題にのぼった誰かさん──十握と違って相手の哀願慟哭苦鳴怨嗟を全身に浴びようと寝つきが悪くなる玉ではない。うっかり踏み潰した蟻を見ておもうことと同じですぐに忘れる。
穏便に解決するためである。
およそ、馬が合うとはいいがたいふたりだが、清掃代という余計な出費を──しかも、足下を見て高い──嫌う一点においては合致していた。穏便な解決だけなら当初のサボンの手法でも可だが、あえてひと芝居うったのは時短である。
参考にしたのが個室ビデオだけあって延長料金があった。
ま、年齢制限はかけてあるので有言実行でソフィーにまかせてもよかったのですが、あまり後味が悪いのもどうかとおもい──なるべく、スタイリッシュというか、テンポのよさを心がけているので──やってることの実態はともかく、表現的には軽めにすますことにしました。
追伸
今、おもったのですが、軽い気持ちでソフィーが頬を張ったら怪力のせいで長髪の脳がぐらんぐらん揺れて、
「このままだと死んじまうぞ。さっさと話せ」
なるべくならスマートな手法を好む十握の手前、ソフィーを宥めながらサボンが額の汗を拭いつつ説得するシーンもありですね。
もったいないから別の機会に使ってみようかしら。
それでは、また、次回にお逢いしたいとおもいますわ
お嬢様と似て非なる存在を拝見しながら。