三季忘却
時は少し前に遡る。
この土地もスラムと同じく陽光に忌避されていた。
すずらん横丁である。
蓋をするかのように鉛色の雲が空を覆っている。
一年中である。それでいて間もなく交代する月になると空はいくらか晴れて顔を覗かせるていどのスペースを確保するという。
一体、なにがあったらここまで拒絶されるというのか。
犬猿の仲の筆頭は太陽だが、距離をおくものは他にもいる。
ここに四季はない。
生命の息吹を感じる春も。
躍動する夏も。
忍従の時である冬も。
あるのは生暖かい風が絡みつく晩秋だけである。
空間を歪曲させた代償というのが有力な説だが、その空間を歪曲させた──闇のマーケットの設立者が不明なので立証の手だてはない。ボスの毒王ならなにかしっているのかもしれないが──あるいは、当事者かもしれないが──彼女の重い口を割ることができる者はこちらの世界広しといえどひとりであると目されている。その口さがない連中がパン屋の御前とも天使の皮を被った悪魔とも呼ぶ人物がロズウェルの件で学んだことは謎は謎のままにしておいたほうが楽しめる。下手につまびらかにすると興醒めするであった。
すべてのものがくすむ陰鬱な季節。すずらん横丁に秋の実りはない。だまし絵のような奇怪な建造物とあいまって凡夫なら安中散が欲しくなるところである。だが、しかし、ここの住民はしたたかだ。気温の変化を考慮して調合を変える手間が省けると停滞を恬然と受けいれている。
場違いな口笛に風が驚いている。
「ここは面白いところですね」
おのぼりさん剥きだしでケンが感嘆する。
「トリックアートのなかにはいった気分です」
「あまり覗きこむのはどうかと……」
「大丈夫です。こう見えてわたし強いので。よそ者だから気に喰わないって難癖つけてくるのがいたらなますにしてやりますよ」
丸々とした手が鞘を軽く叩く。
「勇ましいことで」
十握は肩をすくめた。
偶然、落ちあったのである。
いかに十握が隣家の旦那と懇ろになって刃傷沙汰を引きおこす奥さんなみにガバガバの安全基準でもすずらん横丁を観光に選ばない。
十握は馴染みの店で薬の試作に使う乾物を買った帰りである。
一見でこの地に足を踏みこめたのは十握だけであるから、ケンはなんらかの方法で紹介者を掴んだことになる。金とコネのあるいいとこの坊やの面目躍如か。好奇心は猫をも殺すという格言を失念するようでは彼を担当した家庭教師は指導者失格の烙印を押されても仕方あるまい。
ケンは気さくに周囲の者に声をかける。
かの地の住人はおしなべて警戒心が強い。
とりわけ、場違いな者には──。
普通なら、目を逸らして無視するか、鬱陶しげに手を振って拒絶の意思をあらわにするか、より積極的な者なら包丁の五・六本も投げて追い払うところなのに──仕方がないという態度で応じるのは陽気な人柄の賜物である。
「小腹も空いてきたことですしなにか買いませんか?」
腹を鳴らすケンが広場の隅で白煙をあげる屋台を指さす。
「なにかの煮込み料理のようですね」
「ここの料理は総じて香辛料が強い。慣れないと腹を壊します」
「夕飯が食べたいから間食は諦めるしかないですね」
残念です、と食い意地のはったケンが唇を尖らせる。
十握は翻意できたことに胸を撫でおろす。
腹を壊すは嘘である。ここの食べ物は毒王の家でだされた紅茶以外は口にしたことがない者に味などしりようがないし、しりたいともおもわない。
すずらん横丁の料理。それも煮込みである。なにがはいっているかわかったものではない。醜怪なモンスターの腐食部どころか、人肉が雑ざっていてもさもありなんである。他人が食べている姿も見たくない。
元いた世界の権利の要求は声高に叫ぶがそれに伴う責任は貝のように口を閉ざす輩をもってしても偏見のレッテル貼りは苦慮するに相違ない。
公平無私の目で見ろというのは、土台、無理な話である。
外にでればいくらでもまともな料理にありつけるのだ。
格安店で買った弁当が祟ってひと晩中、リビングとトイレを往復したり、頻闇を照らす一条のペンライトの明かりを頼りにスプリングのへたったソファーで扁桃腺を痛める元いた世界の同僚らに憐れみと侮蔑のないまざった視線を送っていた十握は、手の洗いすぎで皮膚科を通院した経験があった。
車輪と石畳の接する音が聞こえてきたのは、腹の音を鳴らし続けるケンが未練たらたらと飲食店の看板を眺めていた時のことである。
その馬車は大貴族が乗り回すそれと較べても遜色のない豪奢なものであった。
この街向きの馬車であった。
牽引する二頭に首がない。首切り馬である。摂取がなければ路上に糞を撒き散らすことはなかろう。で、あるなら風流を解さぬ野暮天の謗りは免れる。だが、しかし、元いた世界と較べるとゆるゆるとはいえ、さすがにこちらの自然法則を大きく逸脱するそれをどうやれば使役することができるというのか。
一番、手っとり早い餌づけが不可能である。
人工的に作りだしたものか?
御者は生気に乏しいメイドである。
視界に十握がいながら手綱を握る姿に微塵も変化はない。
これがいかに尋常ならざることか。
横づけすると観音開きのドアが開いて老婆が顔をだした。
「時間が惜しい。つべこべいわずに乗るんだよ」
すずらん横丁の主──毒王である。
ふたりを乗せると馬車は発進する。
震動は微塵も感じられない。
魔法の援用であった。
「デートの誘いにしては強引すぎやしませんか」
玲瓏たる美貌に不服が貼りついている。
「わたしは魔性の女だからね。男を翻弄するのはお手のものさ」
「困った人だ」
やれやれと十握は肩をすくめた。
「年をとるとせっかちになるといいますが、あなたも例外ではなかった、と」
「年のことはいうんじゃないよ」
灰色がかった双眸が炯々と光った。
「ここの住民がそれを口にしたら罰で人形に変えるところだ」
「おまえを蝋人形にしてやろうか? ですか。それは怖い」
十握の軽口を毒王は無視して、
「三十分後にあんたの賭場が襲われる」
蹄が石畳を蹴る音がいやに大きく聞こえる。
十握は深々と息を吐いた。
「空が堕ちてくるに等しい、どんなに荒唐無稽の内容であったとしても──それを口にしたのがすずらん横丁の主であるなら本当かと訊き返すのは野暮ですね」
「いい了見だ。怒りを抑制できるのは強者の証さ」
「怒りは思考の時間を奪うものと本で読みました」
「ほう、危な絵ばかりにかまけていたわけではないと?」
「目の保養になる女性は身近にいますので」
「堪えた怒りは、直接、当事者にぶつけてやるんだね」
毒王は一拍置くと、
「これはわたしからのひと足早い聖シェーベルの贈り物さ。最短の出口に案内する。その橋を渡って三度目の交差点を右に次を左に曲がれば逃走中の首謀者に会える。倒れるまで殴って起きあがるまで蹴飛ばしておやり」
「できれば未然に防ぎたいのですが」
「気持ちはわかるがそれは無理な話さ。昨日が満月だったからね。その影響で空間が広がりきっている。万斛の涙を呑んで泥縄を編むんだね」
「ご厚意に感謝します」
「感謝は山吹色に換算しておくれ」
毒王はにべもない。それからケンを見る。
「変わった子だね」
凝視は十秒ほど続いたか。十握に向けていたのとはうって変わってそれは慈愛に満ちていた。
「無理して飲んじゃいけないよ」
「──?」
「いいってことさ」
存外に肌艶のいい手が反駁を遮った。
「誰だって隠しておきたいことのひとつやふたつあるもんさ。ただし、これだけは覚えておくんだ。抱えこみすぎると身動きがとれなくなる、とね」
あんたはまだ引き返せる、と毒王はいう。
「お心遣い感謝します」
「ただの老婆心さ」
「わたしの時と対応が違いすぎやしませんか」
「レディーの会話に男が口を挟むんじゃないよ」
十握は肩をすくめた。
「まったく、たまに顔をだしてみたらこのざまだ」
隠れていたバーカウンターから顔をだしたサボンが唇を尖らせる。
義理がけで不在のアーチーに代わって彼がカジノにつめていたのである。みずから世間を狭くして日陰を歩く者たちである。客前にだしてもいい顔でなおかつ如才なく振る舞える者となると限られる。
「怪我人を医者に診せろ。ラウドの雀に嗤われるが仕方ねえ。馬車を使え。客人を好奇の目にさらすわけにはいかねえからな。それと、盗られたもんがあったらおおよその被害額を訊いておけ。ふかす奴がいるだろうから十握の旦那が後で確認するかもしれねえって釘をさしておくんだ」
最後の一行は小声で部下に指図する。
「親父への報告はどうします?」
サボンと組むことの多いすきっ歯が訊く。
「後回しだ」
「いいんですか?」
「不幸中の幸いで客は怪我ですんだ。しらせたところで抜けだせねえんじゃ急ぐこともねえだろう」
大きな組織の業務提携がある。
アーチーの役割は元いた世界でいうところの取り持ち人である。小麦を買う金にも事欠いていた昨年からは考えられない栄達である。それが、虎の威を借りる狐であったとしてもだ。
「親父は旦那が絡むこととなると見境がねえからな」
サボンは腕を組んだ。
「それより、旦那だ。おい、エイリアのパン屋へひとっ走りしてこい。いいか、赤字の破門状なんざだしたかねえから礼儀正しく振る舞うことを忘れるな。不在だったらギルドだ。そこも空振りだったらもどってこい。他にも心あたりはあるにはあるが──あそこはおれたちが好き勝手に行ける場所じゃねえ」
すきっ歯が去るとサボンは死屍累々と転がる死体を睥睨する。
殉職した同胞には哀悼の意を表し。
黒ずくめの襲撃者へは敵愾心をあらわにする。
「素人なんかにここまでやられたら親父はえらい剣幕だろうな」
プロの賭場荒らしならもっと遅い時間を狙う。
そのほうが客も店員も疲労が溜まっていて御しやすい。
大金が動く光景はプレイヤーのみならず見る者に緊張を強いる。
そして、最大の憑拠は客の所持品に欲をだしたが胴元を無視したことだ。いあわせた客の所持金を軽く上回る金貨が奥の金庫に眠っている。換金所にあるだけでもかなりの額である。
「さっさと旦那を見つけてとりなしてもらわんと、こりゃ、血の雨が降るぞ」
親父──アーチーを後回しにしたのはこれが本心であった。
「さて、そんじゃ、ま、おれも体を張るとしますか」
サボンは手足の関節を回す。
「逃げた連中を探す。狐狩りの始まりだ。減らず口を叩く元気のある奴はおれについてこい。旦那のパチもんに目にもの見せてやる」
見切り発車ですので加筆訂正に苦労してます。
すずらん横丁はお気にいりです。
某世紀末救世主が活躍する血で血を洗う修羅の世界より、某水深の浅い黒い海のような秩序があるのかないのかあいまいな世界が個人的に好きです。
人を殺ることなど屁ともおもっちゃいない連中が欠伸を噛み殺しながらゴミ出しをしたり、町内会の寄り合いで祭りの相談をしてたら面白いじゃないですか。
いびつな空間です。
なにがおきても不自然にはならないでしょう。
ある日、忽然と建物が消失したり、逆に忽然と天まで届くような塔があらわれてもいいわけです。得体のしれないものが住み着いててもいいわけですから、調理のしがいがあるというものです。
ただ、アクが強すぎてメインに扱うのは難しいかもしれませんね。
それでは、また、次回にお会いしましょう。
まったく治らない喉のために薬局で買ったお高い飴を舐めながら。