狂乱
明らかに男のそれでありながら女性よりたおやかな手から放たれた人さし指ほどの長さの針はくの字に曲がった常夜灯に弾かれた。
「シャロンさんの活躍の後で横着はできませんか」
針はジョンから逸れていた。手前の影を狙ったのである。わざわざ打ち返したということは本能で危険を察したか。突然変異はスケコマシに野獣の嗅覚をもたらしたようだ。
ジョンの右手があがる。
常夜灯が貫いた十握は――残像だ。
ジョンの右手から生えた銀毛は軽いひと振りで抜け落ちた。
サボンとシャロンが顔色なからしめるのに対して十握は泰然自若である。
予期していたことである。
元いた世界のしがないサラリーマンである十握に針灸の知識は乏しい。彼がアクション物とヨガでしりえたことは、正中線に急所が集中しているということと、親指と人指し指の間――合谷を揉むと体にいい、それだけだ。
今まで勘で刺してきた。
象に似た巨獣を一撃で屠ったのも、お詫びがてらに治したエルフの美容師の腰痛もなんとなく浮かんだ箇所を刺しただけである。
今回はその勘が働かない。
麻薬の変異体ゆえに不安定な存在なのであろう。
点穴なんてしゃらくせえ、白鯨が気絶するほどの魔力をこめた針をお見舞えしてやればいい、という安易な策は面倒くさがりの十握にとって望むところだが、いかんせん、殺してしまうとこれまでの苦労が水泡と帰す。生け捕りにしたいのでそれは最後に試すこととする。
大振りではもどかしいと常夜灯を捨てるとジョンは突進した。
風がゴウゴウと唸る。
風圧に黒髪が持ってかれる。
十握が避けざまに放った針は空を切る。
無理な姿勢からか見当違いの方向に飛ぶのが散見する。
窈窕たる美丈夫にあるまじき失態に、さしもの観衆にも動揺がさざ波のように広がる。
「大丈夫だよな?」
絞りだすようにいうサボンの質問に応える者はいなかった。
ジョンは執拗に追いすがる。
体格差は明瞭である。大人と赤子ほどの差がある。ジョンは接近戦に持ちこむ腹だ。手四つなどといわず、あたるを幸いとどこでもいい。力まかせに掴めば皮膚は裂ける、骨は折れる。剛よく柔を制す。逆は至難のわざだ。格闘技の試合を体重でわけるのがその証左である。元いた世界の喧嘩だと──殺るつもりなどさらさらないじゃれあいでは、武道の高段者を持ってしてもふたり同時が限度だと一般的にいわれている。圧倒的に不利な状況を十握はどうやって覆すというのか。
十握は両腕を交差させて蹴りをうけとめた。
観衆が声にならない悲鳴をあげた。
衝撃を受けきれずに十握は弾け飛んだ。
後方に一回転しながら天高く舞いあがる。
熱い抱擁を交わさんと待ち構える大地は肩透かしを喰らった。
観衆の視線は宙に留まっている。
十握は悠然と空を歩いている。
白皙の美丈夫に相応しい光景に人々は蕩然と見惚れる。
十握は糸を足場にしている。
ジョンの真上で足をとめた。
「お待たせしました」
続く、いや、お待たせしすぎたかもしれませんは心内に留める。
天の穴を突いたとでもいうのか。繊指から離れた後も針は宙に浮いている。
月よ、やはり、あなたは女性だ。
天から注ぐ一条の淡い光はその針を起点に枝わかれした。
地面に刺さった針をめざして。
月光が五芒星をかたどる。
窈窕たる美丈夫らしからぬ行為はこのためであったのだ。
ジョンは光の牢獄に閉じこめられた。
体当たりするも、力まかせにぶん殴るも厚さ一アトメートルもない壁はびくともしない。皮膚が破れて出血している。咆哮も阻んでいる。静かな夜がもどる。
剛よく柔を制すが、魔術は別のようだ。
「効果が切れるまでそこでおとなしくしてください」
十握は動物園で威嚇するチンパンジーを見るようないくらか憐憫をこめた目でジョンを一瞥するとサボンに、
「役人を呼んでください」
そういうと踵を返した。
「あの、旦那……どちらへ?」
「しった顔があったので挨拶してきます」
これは贅言だが、五芒星を選んだのは十握の信条である。イメージはドーマンセーマンである。三重県志摩地方の海女が身につける五芒星のお守りである。セーマンドーマンともいう。はっきりとしたいわれは不詳だが、ドーマンとセーマン、蘆屋道満と安倍晴明、陰陽道の影響は確実である。内容の大半がその業界の紹介で最後にちょろっとだけトラブルを解決して締めくくるやたらと出演者の多い映画の次に、霊感商法で荒稼ぎする占い師が嫌いな十握としては連中が好むダビデの星(六芒星)は抵抗があった。
「十握さんってすごい人なんですね」
相貌を上気させながらパメラは感嘆の声をあげる。
「そんなすごい人に助けてもらって。報酬はお金だけとは限らないといってましたが――お礼になにをしたらいいのか」
思案投首のパメラにシャロンはいう。
「クラップスと体で稼ごうや」
「――?」
「冗談よ」
シャロンはいう。
「ボスが厳しいことをいうのは安易な気持ちで助けを求められても困るから。人助けは睡眠に支障がない範囲でしたいって」
そういうとシャロンは値踏みするようにパメラを見る。
「あなたの場合は耳を触らせてあげたら充分。あるなら尻尾も」
「そんなことで――」
「ボスは不憫な体質で無類の猫好きなのに、いざ、触ったら鼻の頭が痒くなる。慣れとは無縁みたい。理由はわからないけど獣人だとそれはおこらない。だから、たまにいっしょにお茶して耳や尻尾を触らせて無聊をなぐさめてあげればそれでボスは満足する」
「月がきれいですね」
十握は狼人族のデコボコ兄弟に声をかけた。
「観光ですか?」
「ええ、まあ」
兄が言葉を濁す。
「ラウドは見るところが多いですらね。長居したくなるのはわかります。ですが、滞在にはお金がかかります。ええと、今日は」
十握はわざとらしく月を見る。
「後三日ほどで満月ですが、そこまで粘る必要がないのは今のでご理解いただけたでしょう。まだ行ってないのでしたら芝居観賞などおすすめです。ひと幕見なら手頃な料金で観られます」
そういうと用がすんだとばかりに背を向ける。
「すべてお見通しってわけか」
兄が唸った。
元いた世界の狼男の伝承と同じく狼人族の能力は月齢に左右される。もっとも力を発揮するのが満月である。単純な底あげにとどまらず、不死に近い回復力を有する。
その一縷の望みを十握は無用と切って捨てたのだ。
狼人族と十握。月がどちらに味方するか考えるまでもなかった。
「クソったれ」
弟が足元の石くれを掴んだ。
「おい、やめろ」
制止はコンマ一秒遅かった。
石くれはすっぽ抜けた。
続けて肘から先が転がる。
俗物の反応は単純である。こうなることを見越して糸を張ってあったのだ。
苦鳴を洩らすと弟は切断面を押さえる。存外に出血は少なかった。
その様子を冷めた表情で見る兄は深々と息を吐いた。
「帰るぞ」
「おい、おれは腕を切られたんだぞ。弟がやられて悔しくないのか」
「たったひとりの弟の腕が切られたんだ。悔しくないわけがないだろう」
一拍置くと、
「だがな、他人の痛みは三年でも辛抱できる」
兄のフックが弟の顎に炸裂した。
崩れ落ちた弟を担いで兄は噴水公園を後にする。
小が大を担ぐ奇異な光景だが、十握の御業の後である。耳目を集めるほどではない。
すれ違った役人連中が、一瞬、怪訝な顔をしたが任務が先と前を向く。
「浅葱裏にしちゃ懸命な判断だ」
近くで傍観していた酔っぱらいが評論家気どりでつぶやいた。
風邪をひきました。幸い、体温は三十七度五分どまりでしたが、喉と耳が痛くて唾を飲むのもつらいし、咳がでるわで大変でした。医者に電話してなんとか薬を処方してもらいましたが会計は駐車場――そんなに悪いことしましたかね? わたしの作風だといいこともしてないからだと反論されそうですが。
今はピーク時を五とすれば二くらいでしょうか。
早く治ってほしいものです。
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あ、そうそう。今もですが風邪が酷い時にお椀の味噌ラーメンと杏仁豆腐とポカリスエットは三種の神器かというくらい重宝しました。同様に困っているかたがいたらお試しください。
また、期間が空くかもしれませんが次回にお会いしましょう。
『見える子ちゃん』を観ながら。