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根回し

 ささやかな選択がその後の人生を大きく変えることは稀にある。

 ヌルの場合はランチであった。

 その店を選んだのに特段の理由はない。しいてあげるなら昨日が肉料理だったから魚料理が食べたくなった、それだけである。

 ヌルはみずから世間を狭くして日陰を歩く者である。

 基本は縄張り内ですごす。選択肢は必然的に限られる。

 お気にいりの席は埋まっていた。

 遮蔽物で占有者の姿は見えない。

 敷居が高くてヌルは行ったことはないがシュプールという新手のレストランの模倣でここも半個室を採用している。当初は料金があがったこともあり、やっていけるのか懐疑的だったが、小声で話せばちょっとした打ちあわせに使えるとわかり、手頃な会議室の代わりと重宝している。

 わずかに窺えるテーブルで琥珀色の液体を湛えたカップが薄く湯気をたてている。

「優雅なことで」

 元いた世界の喫茶店のランチサービスと同じで、料理とセットで頼めば安くなる。銅貨二枚と破格だ。紅茶単品だとそこらの大衆食堂のメインディッシュひと皿に相当する。注文する者はVU相当の絶滅危惧種である。

 シマ内の店できれいに無駄金を使うカモに綾つけるのは筋違いである。

 お気持ち表明は舌打ちに留めてヌルは別の席に座る。

 挨拶代わりに軽口を叩いて料理を注文した次の刹那、肩を叩かれた。

 三白眼で振り向いた次の瞬間、悔恨がヌルの相貌に張りついた。

 椅子に座っていて幸いである。

 たっていたら崩れ落ちていたであろう。

 元いた世界のロックの元祖エルビスもかくやの足の震えである。

 見栄を張るのがヤクザ者の習性だが相手が悪かった。

 ラウドでもっとも美しくもっとも恐ろしい男が目の前にいる。

 悪魔のように黒衣を纏って優しい言葉を紅唇が紡ぎ、天使のように澄ました顔ですべての不義に呵責ない鉄槌をくだす、造形の女神が全精力を傾注した美丈夫を前にして、凡夫に恐れおののく以外のなにができよう。

「なんだって、あんたがこんなとこに?」

 歯の根があわずにいる。うっすら寒い陽気だというのに全身が汗でしとどに濡れている。鼻を近づければ、さぞ、嫌な臭いがしたであろう。

 誰かこの場をとりなしてくれる者がいないか眼で追うも注文を受けた店員ウェイトレスは脱兎のごとく厨房にひっこんでいる。間近で十握の尊顔を拝し奉れば恍惚とたちつくすのが女性の常の反応だが――あらかじめことがおきたら逃げるよううちあわせずみであったか。

「こんなところは店のかたに失礼ですよ」

 十握は諌める。

「では、行きましょうか?」

「――?」

「あなたの事務所にですよ」

「待ってくれ」

 ヌルは叫んだ。

「なんであんたと行かなきゃんらないんだ?」

「いわれのない罪には抗うということですよ」

 十握は淡々という。

「雇用者に責任を追求する必要があります」

「話が見えないんだが」

「紅茶を飲んだくらいで舌打ちされてはかないません」

 絶望にヌルの粗野な造作が蒼褪める。

「し、しらなかったんだ。あんただとわかってたら……」

「懶惰な生活をおくるために、慎ましく暮らす人々を踏みにじってきたヤクザ者に悪気の有無は関係ありません」

 十握はにべもない


 美しい者は得をする。

 悲しいかな、重ねて悲しいかな、これは世の真理である。

 ちょっと愛想を振り撒くだけで余禄にあずかれる。

 まなじりをつりあげた女性がどんなに平等を叫ぼうと、鼻の下を伸ばした連中が鞄を持つし、おまけするし、値引きする。

 いわんや、傾城ともなれば――。

 店主とウェイトレスはなにか深い理由があってこんな回りくどいことをしたのだろうと好意的に解釈したが――そんなものはない。

 ただの方向音痴である。

 道に迷ってとりあえず休んでいただけである。

 動乱期の防衛を意識した名残であろう、元いた世界と較べてわかりにくいうねくった道に加えて、似たような建物ばかりで目印がなかった。

 マルコス一家の評判をウェイトレスに訊いたところ、溜まり場になっているというので案内役を捕まえることにしたのである。

 さすがにマルコス一家のヤサを訊くのは躊躇われた。

 訊くは一時の恥とはいえ、勢い勇んでカチコミにきたはいいが道に迷って困っているは情けないにもほどがある。窈窕たる美丈夫らしからぬ失態である。ただでさえ悪い寝つきがもっと悪くなる。


 スライド式の覗き窓でヌルの姿を確認するとカチリと錠の外れる音がして鉄板で覆った木製のドアが開いた。

 ヌルはドアを開けた者と情熱的なハグをした。

「お邪魔します」

 十握は厚みのある足拭きマットを跨ぐ。

「マルコスさんはどなたですか?」

「おれだ」

 この場でもっとも上等な服を着た恰幅のいい男が返事する。

 上にたつ者だけのことはある。心内の動揺を糊塗する術を心得ていた。

 机の端を掴む指が白い。漸進的筋弛緩法である。元いた世界のアメリカ人医師のエドモント・ジェイコブソンが開発したリラックスの方法である。

 系統だった理論がないだけで、こちらの世界でもストレス緩和法はいろいろとある。綱渡りの人生をおくる者の必須知識であった。

「あんたはアーチーと仲はいいが、一応は堅気だ。表の人間がなんだってこんなカチコミみたいなことをやらかす?」

「ことと次第によっては牙を剥くと?」

 十握は周囲を一瞥する。目があった連中が床の染みに逃避した。

「そんな大層なもんじゃねえよ」

 マルコスは苦笑する。

「あんたが相手じゃ、せいぜいが甘噛みさ」

 謙遜しているが荒事も辞さぬといっている。たいした度胸である。

「こちらにきたのは表の仕事です。そして、あなたがたの本来の業務とは関わりのないことです。とはいえ、部下が勝手にしたことと放置すればアーチーさんと喧嘩になります」

「喧嘩を怖がってたらこの稼業はなりたたねえよ」

「堅気がひとり亡くなっています。そのことでさる大店の若旦那が怒り心頭です。アーチーさんの部下もとばっちりで刺されました。これがどういうことか、察しのいいあなたならわかりますよね?」

「前門の狼と後門の虎というわけか」

 恰幅のいい男――マルコスは嘆息すると十握を見る。

「さらに助っ人に竜がいる」

「その助っ人は静かな夜を望んでいます」

「なるほど、なるほど。すりあわせができるのはいいことだ」

 くぐもった笑い声が室内を席巻した。

「気があうな。おれも夜はゆっくりと酒を楽しみたい」

「ご協力に感謝します」

「いいってことよ。ラウド一の色男に協力したと話せば、誕生日にバッグをプレゼントしてスパークリングワインで乾杯するより飲み屋の姉ちゃんの受けがいいだろうからな」

ちょっと楽屋話をします。

アーチーを博徒にしたのは天の邪鬼精神です。

みなさんは主人公を手助けするヤクザといえばどういうタイプを想像しますか?

あ、ダークヒーローはなしでお願いします。

おそらく縁日でたこ焼きやリンゴ飴を売る人たちを想起したことだとおもいます。

ドラマや漫画でよくある主人公側のヤクザは的屋で構成員は少ないが老舗であちこちに顔が利くというパターンばかりです。

これ、無理ありますよね。

金がなければ義理がけも満足にいかない。

力がすべての弱肉強食の世界です。

それで、たまには的屋でないのが主人公側でもいいはず。金持ちの小遣い銭を巻き上げるくらいにとどめておけば悪名は避けられると博徒にしました。ですので博徒につきものの高利貸しはしていません。

もうちょっと治安がよければ火消しや宅配弁当の頭でもよかったのですがね(信じがたいでしょうが、江戸に仕出し屋の親分がいました)。

それでは、また、次回にお会いしましょう。

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