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趣味の求道者

 元いた世界のグラビアアイドルのブラウスのボタンのように蝶番ちょうつがいが弾けとんだのは、気分がのらず、ルーベンスが書類の数字をぼんやりと目で追っていた時であった。

 役員室である。

 実態は、使い物にならない時の隔離部屋である。

 酒を一滴も受けつけない父親に代わっていくらかましなルーベンスが重要顧客や顕官のパーティーに顔をだすことになっている。

 大事な仕事の結果である。酒が重要な娯楽を占めるこちらの世界で酒席を拒否して栄華は難しい。午後には治るので容認されている。

 もっとも、五回に一回は放蕩仲間と夜を徹したどんちゃん騒ぎのツケだが。

 とっさに机の陰に隠れて最悪の事態を免れたが、一秒遅れていたら首があらぬ方向を向いていたであろう。

 風圧で書類が舞いあがる。

 荒事と縁遠い大店の若旦那に後頭部に手を当てながら上体をおこして臍を見ろというのは酷な話である。ドアと机のぶつかる衝撃でルーベンスは仰向けに倒れた。したたかに後頭部を床に打ちつけて苦鳴を漏らした。

 水面に映る月のように歪む男たちがおしよせると手際よくルーベンスを拘束する。

 ヒーローは遅れてあらわれるという様式美はこちらでも通用する。

 最後尾の男をひと目見た途端に世界が正常にもどった。

 美しい姿を一秒でも長く記憶に留めたいと脳が奮起した結果であった。

 彼は存外に冷静であった。

 死神が大鎌を振るいにくる覚えはある。うやむやになる可能性に賭けたが、天網恢恢疎にして漏らさずということだ。やり手の商売人らしく無駄なあがきはルーベンスの嫌うところであった。

 唯一の誤算は死神が天使を兼ねていたということである。

「偽造の名義で家を借りて変装して──ご丁寧に大きな耳をつけて獣人になりすまして通うとは慎重を期しましたね。おかげで探すのに苦労しました」

 十握である。

「失礼、ノックがまだでした」

 ドアを二回、足蹴にすると瞬時に白磁のようになめらかな相貌が緋に染まる。けれんがすぎる。ここしばらくなかったので油断していたが、体が勝手に動く症状は残念ながら健在であった。

 気まずい時間を打ち破るのは作った張本人しかできない。

 十握は息を吐くとなにごともなかったかのように続ける。

「わたしがこちらにきた理由はわかりますね?」

 ルーベンスは頷いた。

「それは重畳。頭のいいかたは話が早くて助かります」

「おこったことは認めるが、弁解させてくれないか」

「聞くだけなら」

「殺すつもりなどなかった。あれは事故だ。同意の元、慎重に数を数えなが首を絞めてたのだが、おそらく、彼女の体調が優れなかったんだろう、それで……」

 コップに注がれる細い水流が文字通り水をさした。

 十握が高い位置から水差しを傾けている。

 平然とこなしていることからこれは本人の意思である。

「聞くとはいいましたが、嘘につきあうとはいっていません」

 十握は水差しを置く。

「愛人が鼻と前歯を折ったのはなにもないところでうっかり転んだとでも?」

「――」

「後はおまかせします」

 そういうと踵を返す。

「彼らは上司が怪我を負わされたことで気がたっています。かなり荒っぽい歓迎になるとおもいますがご了承ください」

「待ってくれ」

 懇願が十握の背中に追いすがる。

「おれはベティに手をあげたことなどない」

 ベティというのが愛人の名である。愛称はブープ。名は体を表すは往々にして間違っているが、彼女は名に相応しい双丘を有していた。

「それを証明できますか?」

 一瞬、悪魔の証明かなと脳裏をよぎるが、人づきあいが苦手な寡婦を魔女に仕立てるのとはわけが違う、状況証拠がかぎりなく透明に近いブルー――ではなくて、かぎりなく黒としめす相手に訊いているのだから難癖ではないと十握はおもいなおす。

「痴情のもつれはもっともありふれた殺人の動機のひとつです」

 これより頻出する動機となると金銭トラブルくらいである。

 世界が違えど人の営みにそう大差はないということだ。

 これは贅言だが、元いた世界の不倫の慰謝料がやけに安いのは法を運用する側に加害者になる者が多かったからだと十握は睨んでいる。

 悪辣にも、仕事ひと筋で家庭をかえりみず、寂しいおもいをさせて他の異性に懸想するように仕向けた配偶者がおのれの非を棚にあげて舌鋒鋭く非難して、あまつさえ、家財はおろか賠償金まで請求する鬼畜も鬼畜、天魔波旬の所業に、明日はわが身の者たちがたちあがってあやまちをおかした者たちの生活がたつように慰謝料を軽く定める。なんとも情に厚い話だと胸が熱くなる十握は、半荘三回連続で負けるとその日は早く睡魔がやってくる、二重生活など望むべくもない柔弱者である。

「見張り役を兼ねていた家政婦に訊いてくれ。そうすればおれがいかに大事に扱ってきたかわかる。こんなけったいな趣味につきあってくれる女は少ない。それもうりざね顔のいい女となると絶滅危惧種だ。そうだ、店の者たちにも訊いてくれ。商才についてはバラツキがあるかもしれないが、暴力を振るうタイプでないことは異口同音に話すはずだ」

「怖くなって逃げた者に熱弁されましても」

「ああするしかなかった。おれが捕まったら店に累がおよぶ」

「でしたら、大店の若旦那を悪くいう人は少ないでしょう。余計なことをいったばかりに店がとり潰しになったらそれこそ元も子もない」

「訊けばわかる。おれをとり押さえているのじゃなくて、あんたが訊けば女性なら下着の色からへそくりの場所まで喜んで話すはずだ」

 サングラス越しの、オニキスを嵌めこんだような黒瞳に映るルーベンスは真剣な面持ちである。

 時がとまったかのような静寂に包まれる。

 凶相の持ち主たちは心得たもので沈黙を守っている。

「わかりました」

 もてなしは保留にします、と十握はつぶやいた。

「ただし、嘘だと判明した暁には簀巻きにして川に流します」

 賭場荒らしは簀巻きにして川に流すという博徒の伝統がこちらの世界でも根付いた瞬間であった。

潔癖症ではなかったのですが、マスク、手洗い、うがいを余儀なくされる生活のせいでしょうね。ドラマのバースデーケーキに息を吹きかけるシーンを見て気持ち悪くなるようになってしまいました。

あ、でも、地方文化を紹介する某番組でとり箸を使わずに大皿から料理をつまむシーンは苦手でしたから元より潔癖症の素養はあったのかも。

しらずしらず作風に影響していなければいいのですが。

それでは、また、次回にお会いましょう   カレー煮込みうどんを食べながら。

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