プロローグ 凡夫死すべし?
アクション小説です。地の文も会話もすべてアクションとおもって書きました。
テンポを重視して、説明は簡潔に、描写は丁寧にを心掛けてます。
キンキンでごまかすことはしません。キンはありますが。
独特の世界観を楽しんで頂けたら幸いです。
朽ちかけた看板が落日によって金色に輝いていた。
つかの間の時間。五分と保たずに魔法は解けて錆だらけの役目を終えた廃物にもどる。
気づく者は稀だ。
たいがいの者は重力に耐えかねたかのように俯き、コンクリートや石畳のヒビを数えながら時間に追われるように立ち去っていく。
いく人かは夕陽に目を奪われる。
感傷的な者なら惜しむような視線をおくるかもしれない。自然とのしばしの別れ。夜空が藍色と化して久しい。
十握真人はその稀な男であった。
足をとめて茫洋と眺めていた。幼少の頃にはすでに倒産して意味をなしていなかった看板の変容に軽い感動をおぼえていた。
特段、彼がセンチメンタルなわけではない。
ただの気まぐれである。
繁忙期が終わったばかりの解放感がそうさせているだけで、胃薬とエスプレッソの援用で一日が回る日常なら誰よりも肩を落として他人の靴を目で追っていたであろう。
だが、柄にもないことをすると奇禍に遭うというというように――例えば、出不精な者がマラソン大会にエントリーしたら当日大雨で中止になるような――気まぐれの代償はあった。
それも過分の奇禍が……。
十握が最後に耳にしたのはけたたましいクラクションの音である。そして、最後に見たのは巨大な黒い塊であった。
トラックから外れたタイヤが十握を直撃したのである。
十握は弾き飛ばされた。トランポリンと化したコンクリートをバウンドした。受けとめたのは雑居ビルの壁面である。
今夜は海外ドラマをぶっ続けで見る予定だったんだけど……無理……かな……。
薄れゆく意識の中で彼は愚にもつかないことを考え――いや、こんな状況だからこそ思考がチグハグなのもむべなるかな。
不思議と痛みはなかった。
怒声と悲鳴。カメラのシャッター音に包まれたなかで十握は息をひきとった。
風にのって清澄な香りが鼻孔を刺激する。
新緑の香りである。
十握は目をさました。
「ここは?」
見渡す限りの草原。
意味がわからなかった。
病院のベッドならわかるがこんなところにけが人を引っ張りだしてどうする?
よろよろと彼はたちあがる。
故障した個所はないか確認するようにおそるおそる手足を動かしてみる。
これといった問題はない。
では、激しい動きなら。走った途端に古傷が疼くのはよくあることである。
ジャンプしてみた。
軽やかな動き、想像以上の素早さ。学生時代にもどったような感覚である。
これも痛みはない。
これは……どういう……ことだ?
十握は首を傾げる。
理解に苦しむ。子どもが発育途中の柔軟な体のおかげで無傷ですむことはままあるが、成人した、それも屈伸で悲鳴を漏らす男が大きなタイヤに弾き飛ばされて固いコンクリートに受けとめられて無傷ですむはずが――。
「死後の世界? いや、おれの予想がただしければかなり面倒なことに――」
あの世ではないだろう。
手続きを踏んでいない。
金を払って三途の川を渡るなり、天秤に心臓をのせて羽根と釣りあうかという無茶苦茶なテストなり、なんらかのワンクッションがあって天国や地獄に送られるのが相場である。
嫌な予感が氷と化して背筋を這う。
おかしなことだらけであった。
まず、着ている服が違うのだ。
吊るし売りの安スーツが、コスプレ会場で見かけるような機能性皆無のそれにとって代わられている。しかも、黒一色だ。未知の文字が刻まれた指輪つきという徹底ぶりである。
靴はそのままである。
一週間ほど前に義理で参加した草野球で足首を痛めて以来、仕事中は革靴で我慢して通勤はスニーカーに履き替えていた。
痛みはとっくに引いている。
惰性が幸いした。
意識高すぎじゃないかと同僚にからかわれたことが不意に脳裏に浮かんだ。
後悔が募る。
このていどのことで波風たてても仕方がないといなしたが、二日の辛抱とわかっていたならいいかえせばよかった。
「おまえは意識が低いから足が汚いんだな」
夏場は薬を塗るが冬になると忘れていつまでたっても水虫が治らない低脳にはきつくいったほうが当人のためというものだ。
他人の粗は嬉々として指摘するが、じぶんがされると相貌を緋に染めて喚く小者である。
さぞかし駄々をこねてくれるであろう。
想像しただけで愉快になる。
片足立ちで靴下が履けないことを理由に義理を欠いたのだから、口は酷使しても腹を動かしてくることはあるまい。
いっそ、岡惚れしている女性に男がいて、おまえの誘いは迷惑でしかなく、プレゼントはゴミ箱か質屋に流れていると教えてやったら――さすがに大人気ないか。
閑話休題。
生まれ変わって早々にフォースの暗黒面に堕ちるのはよろしくない。
スニーカーは温情か? 現代人の柔弱な足に木やコルクの靴は負荷が強すぎる。
そして、視界。
明瞭であった。朝起きてまっさきにすることが眼鏡をかけることであったのに遠くの木々の枝にとまって羽を休める小鳥の姿がはっきりと視認できる。
十握は小川へ行く。
今ならナルキッソスの気持ちがよくわかる。
透明度の高い水面に映る相貌は可もなく不可もなくのそれから窈窕たる美丈夫へと変貌を遂げているではないか。
オニキスを嵌めこんだかのような澄んだ瞳に高すぎず低すぎずちょうどいい鼻梁、薄く紅を引いたかのような唇――無論、シミや吹き出物といった野暮なものはなしだ。
しばらく息をするのも忘れて食いいるように見る。
別れを惜しむかのように顔をあげると、
「一人称は……わたしで決まりか、な」
十握はひとりごちた。
存外に驚きは薄かった。
受肉した体が精神の負荷をやわらげているのであろう。美の女神が全精力を傾注して造形したとなればいかほどの力を内包しているのやら。肉体と精神は相互関係にある。夜は峠で運動会が日課のチンピラがガードレールの身を挺した功績でバイクから降りざるをえなくなった後でもその粗暴な振る舞いが続けられるか考えればわかる。
――だが、なぜ、おれ……おっと違った。わたしなのか?
疑問が浮かんだ。
十握は周囲を見回す。
ここは異世界らしい。
それも平行世界や千年後の未来とかではなく、ゼロと一で構成される世界――平たくいうとゲームのような世界であるようだ。そう考えるのが一番しっくりくる。
コスプレ衣装を豪華にしたような黒服もそれを補強している。
落ち着いてあたりを観察すると違和感がいくつもある。
植生は疎いから置いといて、その新緑の香りが単調。まるで、緑色のパッケージの制汗スプレーを振りまいたみたい。なによりの憑拠は――虫だ。コンクリートで地表が覆われた都市部ですら小さな水たまりを繁殖場に蚊が跋扈するのに、草原で羽虫一匹、アリ一匹見かけないことがどれだけ不自然なことか。
十握は頬に手を添える。
白磁のようになめらかな手である。
瞑目した。
パラメーターの類は浮かばなかった。
脳裏で訴えればチュートリアルが働くご都合主義とは一線を画すリアル志向らしい。
考える。
存在意義を。異世界――ゲームの世界となると造物主の存在は明白である。招待された者がそのゲームの熟練者なら話は簡単である。神の寵愛――ご褒美である。高レベルと知識で縦横無尽の活躍ができる。だが、十握は縁がない。TPSでも酔う。オープンワールドは移動が煩わしくて少し齧ったていどである。ゲームはせいぜいネットの麻雀を週三でするくらい。まったく知らない世界に放りこんでなにを期待する? もがき苦しむさまか? だが、それだと容姿の説明が……。
「――こんなことになるのならゲームやアニメで勉強しとくべきでしたね」
ふとおもったことがある。
もしかすると、ゲームはこの日のための啓蒙なのかもしれない。とあるアメリカの高名な作家が夢で得た知識を元に今ではホラー作品の土台となる神話を書きあげたように黎明期のゲームのクリエイターも神の啓示を……。
「考えすぎですね」
十握は頭を振って雑念を追い払った。
口調が変わったのは容姿にあわせた結果である。気どってみたくなったのである。
造物主の意図がはっきりしない以上、まずは順応が第一義である。せっかく得た生を無駄に散らすのはもったいない。確証が得られるまで目立つことはなるべく控えるつもりである。神は気まぐれだ。神話が証明している。猫かわいがりもするが、意図に反する行動をとれば途端に手の平を返す――ま、この姿で目立たずというのも限度はあるが。
不意に世界が白く染まった。
遅れて轟音が耳朶を撃った。
大気がビリビリと振動する。
雷である。
近い。
まさに青天の霹靂である。
「騒音は苦手なのですがね」
そう口の端をゆがめると十握は音のするほうへ歩きだした。
雷。
神鳴りとも書く。
造物主が呼ぶなら出向くのが鼻から息吹を授かった者の使命である。