変わる人、変わらない人
「え? エレアーナさまのところにですか? わたくしが?」
夜遅く、やっと帰ってきた兄が突然部屋に尋ねてきたかと思ったら、急にブライトン邸を訪問するようにと告げられ、シュリエラは困惑して思わず聞き返してしまった。
兄の頷く姿に、それが冗談ではないと実感する。
・・・もともと、冗談など言う人ではないけど。
いつかブライトン邸を訪れたいとは思ってはいた。
でも、少しの疑問が湧く。
なぜ、急に?
だって、兄が私に告げた日取りは明日。
それに、心なしか様子がいつもと違う気がする。
焦っている? いえ、これは不安、かしら。
「・・・謝罪を求められているのでしょうか」
手紙のやり取りは穏やかなものだったけれど。
もしかして、エレアーナではない他の家族が、感情を害しているのかもしれない、そう思って。
しかしリュークザインは首を振った。
「謝罪、とは少し違う。・・・だが、お前も知っておかねばならない事があるのだ。父がしでかしたことのもたらした影響というものを」
兄の言葉に、シュリエラは少し首を傾げながら眉をひそめる。
「・・・何かあったのですね」
リュークザインは重々しく頷いた。
「本来ならば、私から聞かされるべきなのだろう。現当主であるのだから。・・・だが、お前以外にも伝えなければならぬ人がいる。断罪を受けねばならぬ人もいる。私の負担が少しでも軽くなるようにと、陛下が慮ってくださった上でのことなのだ」
兄の話に含まれた言葉に、まだ事情を知らないながらも事の重大性を悟る。
「明日の朝、ファイがお前をブライトン邸まで送り届けてくれる。そのままファイはこちらに戻ることになっている。迎えが来るまで、お前はブライトン邸にいさせてもらうように」
「・・・はい」
「ケインバッハ・ダイスヒルも来るそうだ。後はエレアーナ嬢のご友人であるマスカルバーノ侯爵令嬢お二人、そして・・・レオンハルト王太子殿下と護衛を務めるライナスバージが」
「・・・殿下が・・・」
一瞬、戸惑ったものの、きゅっと唇を引き結んで顔を上げた。
「わかりました。伺わせていただきますわ」
不安で少し青ざめている妹に、リュークザインは手を伸ばし、そっと頭を撫でた。
シュリエラが驚きで目を瞠る。
これまで、一度もこの兄からそんな行為をされたことがなかったのだ。
「お兄さま・・・?」
初めてのことにどうしていいか分からず、おずおずと兄を呼んでみると、リュークザインは微かな笑みを浮かべた。
高慢で我儘で父親の世界しか知らなかったシュリエラと、祖父を亡くして以降ライプニヒ家の誰とも水が合わず、ただこの家の末路を嘆くしかなかったリュークザインと。
血の繋がった家族といえど、これまで互いになんの情も愛着も湧くことはなかった。
寧ろ、最も近い存在でありながら、最も理解することが出来ない存在でしかなくて。
共に時間を過ごさねばならない時は、ただ居た堪れなくて、ぎこちなくて、苦痛でしかなくて。
なのに。
なんだろうか、この安堵は。
雪が降り積もるように静かに重なっていく、この穏やかさは。
「・・・お兄さまに頭を撫でていただくなんて初めてです」
少しはにかみながら、そう呟くと。
「そうだろう。初めて撫でたからな」
そう言って眉尻を下げた。
兄のそんな表情を見るのも初めてのことで、また驚いてしまう。
家族の誰といる時も、この兄はいつだって無表情だったから。
必要最低限の会話しかせず。
極力、邸に寄り付かず。
ずっと、嫌われていると思っていた。
・・・いえ、あの頃の私は、確かに嫌われていたのだろう。
今なら分かる。
自分が、どれほど思い上がっていたか。
不遜で、相手を貶めて攻撃することで自分の価値を見出すような子どもで。
自分こそが完璧な令嬢だと。
自分こそが最も美しいと。
自分こそが正しいと。
兄はきっと、最初からこんなに優しい人だったのに。
私は、父の言うことばかりを信じ込んで。
「あ・・・」
「どうした?」
何かに驚いたように声を漏らした妹に、リュークが顔を覗き込む。
「わたくし、よくよく考えてみたら、頭を撫でていただくこと自体が初めての経験でした・・・」
「え?」
少し首を傾げながら、シュリエラは、うーん、と記憶を辿ってみる。
「シュリエラ?」
「ええ。やっぱりそうですわ。だって、お父さまにも撫でられた事がありませんでしたもの」
その言葉に、リュークザインは大きく息を吐いた。
「父上は・・・。いや、そうか」
「そうですわ。でも・・・ふふ、わたくし、ようやくお兄さまに頭を撫でて頂けたのですね」
嬉しそうに笑う妹を、リュークはじっと見つめた。
「ああ、そうだな。・・・お前は変わってくれた、それからお前のもう一人の兄もだ。少しずつ変わってくれている。・・・安心したよ、本当に」
そう言って安堵の笑みを浮かべる兄を見て、これまで、兄がこの家の歪みにどれ程の孤独と不安を抱えていたのか、その重さをシュリエラはやっと気づいたのだった。




