王太子と宰相の一人息子は、再び恋に落ちる
その日、ケインバッハは護衛を連れたレオンと共に、お忍びで城下に来ていた。
南区のトロスト街に住んでいるという、レオンの乳母だった女性を訪ねて。
乳母のシルフィは、レオンが7歳になるまで城にいたので、俺も会ったことがある。
よく笑う、元気な人。
レオンハルトの悪戯や我儘を、王太子だからと言って甘やかしたりせず、優しく、でも、きっちりしっかり叱り飛ばした人。
家庭教師から逃げようとした俺たちを、ものすごい速さで追いかけて捕まえた人。
そんな記憶しかなかったから、床に臥せがちだと聞いて、驚いたのは俺も同じで。
気にはしつつも、見舞いに行く機会を逃してしまっていたから、エレアーナ嬢の贈り物が、うまく俺たちの背中を押してくれた。
「なんか、すごい喜んでくれてたね。シルフィ」
そういうレオンの方が、ものすごく嬉しそうだ。
懐かしいのと、安心したのと、両方なのだろう。
「久しぶりにレオンの顔が見られたんだ。喜ぶさ」
たぶん、俺の顔も少し緩んでいる。
少し体の線が細くなっていたけれど、顔色は思っていたほど悪くなかった。
医者にも診てもらったようで、疲労が溜まったのだとシルフィは笑っていた。
「エレアーナ嬢のプレゼントも、すごい喜ばれたね」
「ああ。きっと女性は、ああいうものが好きなんだろうな」
「それに、会ったこともない公爵令嬢から平民が贈り物をもらうなんて、普通ないからね。しかもお手製。即行で開けて中を見てたもの」
「……いい匂いがするって、はしゃいでいたな」
「うん。エレアーナ嬢には感謝しないとね」
エレアーナ嬢の顔でも思い出したのだろう。
レオンの頬が少し色づいている。
「……プレゼントが喜ばれたこと、エレアーナ嬢に伝えたらどうだ? きっと嬉しがると思うが」
親友へのささやかな応援。
胸は少し苦しいが、ここで意地悪をしてもしょうがない。
「ふふ、そうだね。機会があれば、お礼もしたいし」
嬉しそうに微笑むレオンハルトに、少しの苦みが交じった笑みを返す。
街はずれに停めた馬車までの道のりは、いつもよりも遠く感じて。
その後は、互いに何も話さず、黙って歩き続けた。
だからと言って気まずい沈黙ということもなく、レオンハルトは辺りの街並みを楽しそうに眺めている。
ここのところ忙しすぎて、ろくに気晴らしもできなかったからな。
表に裏にと、微妙に絡む政略と貴族の思惑。
次期国王となるレオンハルトを取り込もうと、あの手この手で近づいてくる輩も多い。
一番手っ取り早い手段として王太子妃の座を狙うのも、当然の成り行きで。
優しく穏やかなレオンハルトという人の内面を、きちんと見て、わかって、大切に思うよりも、ただ王太子という立場を、その美しい顔立ちを、付随する権力を求めて近寄ってくるだけで。
それにレオンが気づかないはずもなく。
レオンが疲れてしまうのも、初めから期待しないのも、当然なのだ。
--だから。
だから、エレアーナ嬢の心遣いが、気負いの無さが嬉しかったのだろう。
おそらく彼女は、王太子妃という立場に何の興味もない筈だ。
というより、どちらかと言えば望んでいないだろう。
自邸のパーティで、やっと顔合わせに現れたくらいなのだから。
打算も、欲も、何もなく、ただ人として気遣って。
きっとそこに惹かれたのだろうな。
レオンも、……俺も。
「……あれ?」
小さな声を漏らし、少し前を歩いていたレオンの足が止まる。
その声に反応して、護衛が警戒して辺りを見回す。
「ねぇ、ケイン。あれ……エレアーナ嬢?」
予想もしない名前に驚いて、レオンが見つめる先に目をやると、少し奥まった建物の入り口近く、石段に腰かけて子どもたちと楽しそうに話しているのは……確かにエレアーナ嬢で。
「……エレアーナ嬢、に見える、が……」
なぜこんな場所に? 子どもたちに囲まれているがどうしたんだ? まさか一人でここに? 護衛はどうしたんだ?
泡のように、後から後から疑問が浮かび上がる。
だが予想もしない光景に、俺もレオンも何も言葉が出てこない。
「……あれは、孤児院ですね」
背後にいた護衛が、そっと呟く。
「……孤児院?」
「はい。私は、治安維持の巡回パトロールでこの辺りを回ったことがありますので、間違いありません。どうやら、孤児院の子どもたちとお話しなさっているようですね。建物近くに護衛もおりますから、計画的なご訪問だとは思いますが」
「そうか……」
平服を着ているせいか、あちらが俺たちに気づく様子はない。
エレアーナ嬢も子どもたちも、何やら楽しそうに話しながら、前を向いたり下を向いたり忙しい。
よくよく見れば、みんな手に何か持っていて。
あれは—ペンか?
いや、紙は持ってないようだし、ここは外だし……。
「……チョーク、だろうか?」
「……ああ、そうみたいだね。なにか一緒に書いてるのかな」
--もしかして、字を、孤児たちに教えているのか・・?
「……すごいね」
レオンも理解したのだろう。
安心したような、眩しいものを見るような、そして少しだけ切なげに目を細めて。
「ふふ、エレアーナ嬢には、また驚かされちゃったよ」
貴族で最高位にある筆頭公爵家のご令嬢が、なんとも楽し気に孤児たちと語らいながら、文字を教えている様子は。
とても、とても、気高くて。
目の前に見えるその景色を、壊したくないと、そう思って。
俺たちは、そのまま黙って馬車へと向かった。