薔薇の香り
ふわり。
彼女から微かに漂う香りに、無意識に身体が動いた。
気がつけば、後ろから彼女を抱きすくめていて。
彼女の肩がぴくりと跳ねる。
緊張のせいか体が硬くなったけれど、それがまた愛しくて。
俺の、俺だけの姫君。
柔らかな銀の髪に顔を埋め、その香りを確かめるように、すう、と息を吸い込んだ。
「ケ、ケインさま・・・?」
「・・・ん?」
「あ、の・・・どうか、なさいまして?」
「・・・エレアーナの髪から、いい香りがする」
俺の腕に後ろからすっぽりと抱えられたまま、おずおずと尋ねる姿が、とても可愛らしくて、思わず目を細めてしまう。
「これは・・・薔薇?」
「あ、はい。薔薇の蒸留水の香りでしょうか。今朝、髪に吹きかけましたから」
「・・・そうか」
懐かしくて、ふ、と笑みが零れる。
「ケインさま?」
「・・・ガーデンパーティで初めて会ったときも、君は薔薇の蒸留水の話をしていたな」
「え?」
「レオンの乳母が調子を崩したと聞いて、君は俺たちを置いてどこかに行ってしまっただろう? そして、戻ってきたと思ったら、乳母に渡すように、と見舞いの品をレオンに渡していた。その品の一つが、薔薇の蒸留水だった」
「まあ・・・そうでしたかしら」
「そうだとも」
エレアーナの身体に回した腕は、まだしっかりと彼女を抱きしめたまま。
その肩に自分の頭を乗せ、ケインは彼女の柔らかな髪の感触を楽しむ。
息を吸うたびに、芳しい薔薇の香りが鼻腔に立ち上り、ケインは夢を見ているような心地になる。
彼女の胸の鼓動は、胸の上で交差させた俺の腕にまで伝わってきて。
「あの・・・ケインさま」
「うん?」
「え、と、これでは・・・動けませんわ」
「・・・動きたいのか?」
「えと、いえ、あの、あ、そうですわ。お茶、お茶を淹れなおそうかと」
「・・・分かった」
仕方なく彼女を閉じ込めていた腕を解くと、エレアーナは急ぎ足でお湯のある所へと向かってしまう。
こちらからはエレアーナの顔は見えないけれど、俯いているせいで僅かに見え隠れするうなじが、うっすらと朱に染まっていて。
・・・可愛い。
そんなことを思って、また頬が緩んでしまう。
エレアーナは、まだ気恥ずかしいのか、背を向けたまま話し始めた。
「こうしてサロンでお茶を飲むのも久しぶりですわね」
それで隠せてるつもりなのだろうか。
ケインは、ふ、と微笑んだ。
「ここのところずっと忙しくて、こうしてゆっくり会うことも出来なかったからな。でも先日は、君がわざわざ執務室まで昼食を届けてくれて嬉しかった」
「いえ、そんな。こちらこそ楽しかったですわ」
お茶はとうに注ぎ終わったといのに、エレアーナは顔を背けたまま話し続けていて、一向にお茶を運ぶ気配がない。
「運ぶのを手伝おう」
すっと近づいてカップを取ろうと手を伸ばせば、何故かエレアーナの身体が大きく跳ねる。
「・・・エレアーナ?」
「あ、す、すみません。えと運んでくださるのですよね。ありがとうございます。ではわたくしはお茶菓子を持っていきますわ」
慌てて菓子をのせた器を手に取り、ケインより先にテーブルへと歩いて行く。
困らせすぎたか。
その後ろ姿にケインは苦笑しながらも、カップをテーブルに運んだ。
「・・・そういえば、明日、結婚式用のドレスが届くそうですわ。先ほど店から連絡がありましたの」
「そうか。楽しみだな」
相槌を打ちながら、ケインの脳裏にはエレアーナがドレスを試着した時の姿が浮かんでいた。
あの時は、理性を保つのに必死で。
式を迎える日のことを連想してしまい、早く自分のものにしたくて堪らなくなって。
今だってそうだ。
君はどこまでも美しく無垢で。
俺は君に触れたい渇望にまみれている。
目の前のエレアーナは、二か月後に迫った結婚の日を、純粋に楽しみにしてくれているのに。
俺は、独占欲とか、嫉妬とか、執着とか、君には見せたくない色と欲の混じった感情が、いつも心のどこかにあるのだ。
君は、俺の中にそんな感情があることを知ったら、どう思うのだろうか。
いつもいつも、心と身体は裏腹だ。
抱きしめるだけで慌てふためいてしまう無垢なエレアーナが、晴れて夫婦となる日にどんな表情を見せてくれるのか、と、そんな事をふと考えてしまう自分がいて。
彼女が俺に抱いているであろう印象を決して裏切りたくない、と、願う自分もいる。
あと二か月。
エレアーナ。
遅かれ早かれ、俺の心の渇望は暴かれる。
純粋で美しい君が、俺の腕の中に包まれる夜が来ても。
俺の中の色と欲が、君の眼に露になっても。
君は、今と変わらぬ優しい笑みを、俺に向けてくれるだろうか。
薔薇の香りひとつで、思わず君を抱きすくめてしまった俺の心を、君は理解してくれるだろうか。




