おいで、おいで、愚かな娘
「頼む。お願いだ、神様――」
息を切らしながら山に続く階段を駆け上がる、高校一年生の綾瀬颯太。
ところどころが跳ねた黒いマッシュヘア。
厚手のコートにネックウォーマー、下は裏起毛のジーンズと全身に防寒具を身にまとっていた。
冬の山は冷えており、登るにつれて一段ごとに温度が下がっていくかのような寒さだった。
乾燥した空気が喉を痛めつける。
吐き出す吐息が視界を白く曇らせる。
手に持ったスマートフォンの明かりを頼りに、コンクリートの階段を上る。
寒さのあまり、右と左に交互に持ち替えては片方をポケットの中へつっこんで暖をとる。
ここで見つからないということは――間に合わないかもしれない。
最悪のことを想像しながら、階段を駆け上がる。
コンクリートの階段は狭く、錆びた手すりと合わさって人一人が通るのがやっとだった。
階段を昇りきる頃には、呼吸するので精一杯であった。
辺りを見回すと、古めかしい照明灯に照らされたトンネルが、闇の中で大きく口を開けていた。
その奥に目を凝らす。
すると、トンネルの入り口にボウッと浮かび上がる僅かな白い明かりが見えた。
よろよろと、颯太はその光へ近付いていく。
次第に、その明かりを手に持っている人影が見えてきた。
距離が詰まるに連れ、見覚えのある後ろ姿――友井絵里の背中が見えてきた。
濃紺のダッフルコートに足元から僅かに覗く黒いタイツとパンプス。
特徴的な茶色のロングヘアーは、首に巻いたマフラーの中へ入り込んでいた。
普段、彼女が下校する出で立ちだった。
明かりの正体は手に持ったスマートフォンのようだ。
「友井さん……友井さん!」
必死に叫びながら近付くが、絵里が振り返る様子はなかった。
ただ呆然と、トンネルの入り口で立ち尽くしていた。
一歩一歩、彼女の近くへ。
まるで呼吸などしていないかのように、颯太が彼女を見咎めた時から微動だにしていない。
「友井……さん!」
颯太の声が届いたのか、そこでようやく絵里は頭をあげた。
「よかった、間に合った……」
疲れと安堵が混じりあった笑みを浮かべる颯太。
そして、ゆっくりと絵里は振り返る。
普段はよく笑い活発な元気印という印象があった。
「颯太、くん」
だが、颯太の目の前で振り返った彼女は、同じ人物とは思えなかった。
肌は白く血の気を感じられず、焦点の定まらない両の瞳には生気が宿ってはいなかった。元より目鼻が整っていた彼女だが、今や体温が感じられないその外見から――まるで人形のようだと颯太の脳裏に過る。
「あたしね、見えたの」
囁くように、絵里は一人呟く。
「お父さんとお母さんと梨花、いたの……ココに」
抑揚のない声で、語りかける。
「颯太くんも見えてるよね?」
泳いでいた双眸が一転して、颯太の瞳を見返す。
思わず、颯太はたじろぐ。
そうっと、絵里の背後から細く黒い影が現れた。
淡い照明灯の明かりの下では、それが焼けただれた腕であると解るのに数秒を要した。
グリルの上で焼きすぎた畜肉のように黒く焦げ、収縮した皮膚の裂け目から痛々しい赤い肉や骨が垣間見える。
まるで今しがたまで炎に当てられていたかのように、寒空の下で煙を上げていた。
背後から抱擁するように黒い腕は肩に、腹に、足に、そして顔にまで手を回す。
べたべたと、巻き付く腕。彼女に触れると、シュウゥと音を立て煙が昇る。
露出した肌に触れられた部分は赤く、そして徐々に黒く変色する。
漂ってくる臭いに、颯太は思わず鼻と口を覆う。
絵里は自らが行われる行為に意に介する様子もなく、むしろ羊水に浸かっているかのように恍惚な表情を浮かべる。
そのまま、彼女の身体は何本もの腕によって覆われようとしていた。
「ふふ……」
何本もの焼けただれた腕の隙間から覗く、半月に歪む唇。
「あったかい」
焼き切れるような音が頭上から降り注ぎ、照明灯の光が激しく明滅する。呼応するかのようにスマートフォンのライトも点滅し始めた。
「ダメだ、友井さん!!」
なりふり構わず、肉薄し手を伸ばす颯太。そして、右手で細い絵里の手首を握った瞬間だった。
赤熱した金属でも握ったかのように掌が悲鳴をあげる。
頭に激しい痛みが走る。
蛇が頭蓋骨の中を這い回るような不快感と激痛に、視界までもが輪郭を失っていく。
墨汁を垂らしたような闇の中で、ぼんやりと浮かぶのは轟々と燃える大きな炎と黒煙。マンションだろうか、長方形の建造物は穴という穴から煙が立ち上っている。
下層から建物の中ほどまでは、真っ赤な炎が吹き出していた。
『お゛か゛ぁ゛さ゛ん゛! お゛と゛ぉ゛さ゛ん゛!』
喉の奥底から吐き出すような、少女の叫び声が響き渡る。
『え゛り゛ぃ゛!!』
それは幼いながらも、どこか聞き覚えるある声だった。
『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!』
耳をつんざくような少女の慟哭と、遠くから近付いてくるサイレンの音が混じり合う。
大音量のノイズ音楽を聴いているかのように、鼓膜が暴れ、視界がぐらりと歪む。
気が付くと、颯太は蛍光灯の明かりに照らされていた。
「――はぁっ、はぁ……!!」
額から玉の汗を流し、全速力で走ったかのような疲弊感に襲われ膝を崩す。
まるで全身から煙でも出そうなほどの熱に包まれていた。
だが、事態を飲み込むにつれてそれは冷や汗へと変わっていく。
地面に手をつきながらも、辺りを見回す。
人の気配はなく、周りからは木々のざわめきが風に乗って聞こえてくるばかり。
トンネルは相変わらず、照明灯に照らされていた。漆黒の口を開けて。
絵里を掴んだ右の掌に視線を落とす。
力いっぱい握りこんだ拳は、目を覚ます前は皮膚が溶けたかと思わんばかりの激痛に襲われていたが、今や痛みはなく外傷は全く見受けられなかった。
一歩一本、丁寧に指を開いていくと、くしゃくしゃに潰れた画用紙のようなものが掌に収まっていた。
白い息を吐きながら、慎重に開く。
だが、潰れていたそれは写真だった。
プリントアウトされたカラーの写真。
映っていたのは、四人の男女だった。
大人二人に、少女が二人並んでいる。
少女のうち、背の高い方が絵里であろう。
幼いながらに、面影が感じられた。
他の三人はと言うと、顔が真っ黒に焦げていた。
ライターで炙ったかのように、頭部が焼け焦げている。
颯太は顔を上げると、トンネルの奥を凝視する。
入口の照明灯以外に明かりはなく、井戸の底でも覗いているかのような暗闇が続いていた。
普通の人なら立ち寄らないであろうトンネルの奥。
その奥に絵里がいると、颯太は確信していた。
その証拠に、右手に収められた写真こそ、彼女の辿った軌跡を表す唯一の現世の断片なのだ。
「友井さん……」
彼女を追いかけるべく、颯太は一歩、闇の中へ足を踏み出した。
――タンッ。
ブーツがアスファルトを踏みしめる。トンネルの内壁にそれが反響し、遠ざかっていく。
颯太とて恐ろしくないわけではなかった。十六歳の青年が微塵にも恐怖を感じないわけではなかった。
本来ならば両手を上げて一目散に逃げ去りたい気持ちが、真正面から胸を押し返してくる。
闇の威圧が、さらに加勢する。
恐怖の心が、踵を返そうとする。
だが、たった一人の存在が背中を後押しする。
颯太自身がよく知った、友井絵里という少女の存在だ。
「違う、違うんだ友井さん――」
スマートフォンでトンネルの内部を照らす。
肩ほどの高さだろうか。朽ちた木の看板が颯太の目に留まる。
『リゾートホテル グランド宇津井』
斜めに傾き、字は剥げて時代の経過を物語っていた。
グランド宇津井。
バブル景気により様々なリゾートホテルが山奥へと建てられた。
立地の悪さはあったが、都会から車でやってくる客を見越して建設された非日常を演出するリゾートホテルだった。
だが、バブル景気が去ると一転して経営難に陥った。
管理人は資金繰りに失敗して首をくくり、その後も所有者は二転三転した。
自殺にはうってつけと、宿泊客の自殺が相次ぎ、挙句の果てには火災により従業員と僅かばかりの客が焼死。最後には火災を免れた別館が、保険金殺人の遺体解体現場に使われたという、有名な心霊スポットであった。
「呼んでいるのは、家族じゃない……」
思い返すと、絵里を掴んでいた腕の中に、写真に写る少女の腕はなかった。全て大人ほどの腕であったし、そもそも彼女を覆う腕の本数は三人にしては多すぎたのだ。
彼女は魅入られたのだろう、死者に。
このままでは連れていかれるだろう、幽世に。
――助けなければ。
颯太は歩を進める。
暗闇の中を、小さな明かりを頼りに。