記憶喪失でも隣にいていいですか?
私はゆっくりと病室を見回した。白い壁紙に白い床、白いベッド。そこに私の物はなにも残されておらず、無機質で、私が暮らしていた痕跡を残すのは少しシワになっているシーツだけだ。
そのことに少しだけ胸の中がモヤモヤして、つい顔を歪めてしまう。一ヶ月もここにいて、この空間にも親しみを感じていたのに、なにも残せないのはちょっと寂しい。なんか、こう、別れた恋人がすぐに新しい彼女を作った感じだ。いや、この場合振るのは私になるから違うだろうけど……。
そんなことを思っていると、遠くから母の声が聞こえてきた。
「詩織ー! 早くしなさーい!」
「……はーい!」
声に弾かれるようにして私は病室を出た。扉を閉める直前、もう一度病室の中をちらりと見て、小さく「さよなら」と口にする。そして少し先で待つ母の元へ向かって駆け出した。
紙袋をいくつも抱えた母は、「ほら、行くわよ」と言うとさっさと歩き出した。その背中はふらついていて、少しの衝撃でも倒れてしまいそうだ。
私はぎゅっと手を握りしめると、勇気を振り絞って声をかける。
「――持つよ」
けれど母は笑いながら首を横に振る。
「いいのいいの。やっと退院する娘に荷物を持たせるわけにはいかないじゃない」
――本当に? 本当に、それだけ?
私が『詩織』じゃないから、頼ってくれないんじゃないの?
そんなことを口にしてしまいそうになり、ぐっと唇を噛み締める。
母はいつだって私を『詩織』だとして接してくれる。けれど、やっぱりどこか他人行儀なところもあって、それが苦しかった。私は『詩織』として家族の一員になりたいのに、あんたは『詩織』じゃないと突き放されているみたいに感じて。
――確かに、私は『詩織』ではない。だけど、それでも、私は『詩織』になりたかった。
「あら、隼人くん」
母の声が聞こえ、ハッと顔を上げる。私と同じくらい小柄な母の背中、その向こうに小さく、こちらに向かってきている年若い青年の姿が見えた。
うげっ、と思わず声を漏らしてしまいそうになるのをなんとか堪える。染めていない黒髪に真面目そうな顔立ち、シャツにジーンズというラフな格好。矢島隼人だ。私の幼馴染み……らしい。私が高校一年生で彼が大学四年生だから、幼馴染みの割には年が離れすぎているような気もするけれど、みんながそう言っているのだからそうなのだろう。実感は湧かないが。
彼が声の届く距離にまで近づくと、母が「こんにちは、隼人くん」と口にした。隼人のほうもにこやかな笑顔を浮かべて「こんにちは、おばさん」と言う。
そして、こちらを見てきた。
「詩織ちゃんも、こんにちは。退院おめでとう」
「…………ありがとうございます」
渋々、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で口にすれば、「詩織!」と母に注意された。だって……と言う代わりにそっぽを向く。
私はどうしても矢島隼人という人物が苦手だった。いつも笑顔でなにを考えているのかわからないし、彼が『詩織』に対してどんな感情を抱いていたのかさっぱりわからなくて、『詩織』ではない私をどんなふうに思っているのか掴めなかったから。どういうふうに接すればいいのか見当もつかなくて、戸惑ってしまう。
黙りこくっていると、やがて諦めたのか母が盛大なため息をついた。「詩織がごめんなさいね、隼人くん」と謝罪の言葉を口にする。
「いえ、大丈夫です。仕方のないことですから」
穏やかな声が聞こえて、つい口をへの字に曲げた。おそらく彼はいつものように完璧で、感情の見えない笑みを浮かべているのだろう。『詩織』はこの年齢になっても彼にべったりだったらしいが、どうしてそうだったのか正直理解できない。こんな感情の見えない人間なんて、薄気味悪いだけなのに。
と、そのとき。
「――それにしても大荷物ですね、持ちましょうか?」
反射的に母の方を見た。
母は、自然な笑顔で言う。
「あらありがとう。お願いできる?」
ぐっと拳を握りしめた。唇を噛んで、下を向く。
そうしなければ叫んでしまいそうだった。「どうして!」と。「どうして私には頼ってくれないのに、そいつには頼るの! 私が『詩織』じゃないから!?」と。
必死に感情を抑え込んでいると、「ほら行くわよ」と、呑気な母の声が聞こえた。顔を上げることなく、小さく頷いて歩き出す。
多くの感情が混じり合い、胸の内は混沌としていた。悲しくて、苦しくて、イラついて、それを抑え込むことしかできなかった。
「詩織ちゃん」
苦手な隼人の声が頭上から降ってきた。くたびれた男物のスニーカーが視界の端に入り込む。
彼の方は見なかった。見たらたぶん、このぐしゃぐしゃな気持ちを彼にぶつけてしまう。それは彼にべったりだったという『詩織』らしくないことだから、絶対にしたくなかった。
聞こえないふりをして、彼の存在を無視して歩き始めた。彼を視界に入れないようにして、ただひたすらに母の背を追う。
背後で彼がどんな表情をしているのか、知る勇気はなかった。
◇◇◇
――始まりは一ヶ月前のことだった。
瞼を上げると、そこには真っ白な天井があった。ツン、と鼻につくのは消毒液の匂い。あれ? と思いながら私は体を起こし、あたりを見回す。
部屋は白を基調としており、色がほとんどなかった。鮮やかなのは窓の外の風景と、サイドテーブルの上に置かれた花くらい。
そこはドラマとかで見るような、一人用の病室だった。
どうして病院にいるんだろ? そう不思議に思いながら、私は記憶をたどって――
「……え?」
声が漏れた。呆然と虚空を見つめる。
記憶がなかった。ここに来た経緯を思い出そうとしても、なにも思い出せなかった。過去も、自分のことも、なにもかも。すべてが頭の中からすっぽりと抜けてしまっていて、思い出せなくて。
あまりにも現実味のないできごとに、私はなにもすることができなかった。いや、だって、まさか記憶喪失なんて……。
そのとき、扉の開く音がした。のろのろとそちらを見れば、某ドーナツチェーン店の紙箱を持った青年が、驚いたようにこちらを見ていた。ぽかん、と間抜けにも口を開けっぱなしにしていて、端正な顔立ちが台無しになっている。
……誰なんだろ? そう思い、私は首を傾げる。たぶん私に関係のある人なんだろうけど、なにも思い出せないからわからなかった。
彼は目を見開いて私を見ている。けれどその様子は、ただ驚いているのとはまた違うように見えて、違和感があった。どうしてそう思うのかはわからないけれど。
そんなことを思っているとどこからか鐘の音が聞こえてきた。途端、青年はビクリと肩を震わせ、ゆっくりとぎこちない笑みを浮かべる。
「目、覚めたんだね。よかった」
けれどその表情は、言葉とは裏腹にあまり喜んではいないようで。
そのことに違和感がさらに膨らむ。どうしてそんな表情をするんだろう? それとも普段からこういう笑い方をする人?
困惑していれば、沈黙が部屋を満たした。そうなると気まずくて口が重たくなり、私はそっと青年から目を逸らす。
なんとなく記憶喪失だと言いづらい雰囲気だった。このまま黙りこくっているわけにもいかないけれど、どうしよう……。
そんな静寂を破ったのは、青年の方だった。
「――おばさんたち、呼んでくるね」
おばさん? 誰? 私とこの人との関係性が見えないから、まったくわからない。
と、そんなことを思っている間に青年がこちらに背を向けた。このままではいけないと思い、私は慌てて喉を震わせる。
「あ、あの!」
思ったよりも大きな声が出た。そのことに自分でも驚きつつ、私はこちらを振り返った青年を見る。彼の顔には先ほどまでとは違って、どうしてだか笑みが浮かんでいたけれど、そんなこと気にしている場合ではない。記憶喪失だって言わなきゃ。
一度深呼吸をして気持ちを整えると、私はきゅっと手を握りしめ、口を開いた。
「あの……あなたは誰ですか? 私、なにも覚えてなくて……」
青年は大きく目を見開いた。
――それが『詩織』ではなくなった私と、矢島隼人の出会いだった。