ハルト、正常性バイアス
「陸上部がいるわ、校庭に」
夏野ユリは屋上を囲むフェンスに顔を近づけたまま言った。
「あれ……? なんで」
「わからないわ」
僕も隣に並んでフェンス越しに校庭を眺めてみる。
見下ろすと、広いグラウンドの向こう側でサッカー部が練習中。二手に分かれた部員たちの掛け声と、ボールを蹴る音が聞こえてくる。
校庭の手前は直線120メートルの白いラインが7本ほど描かれた、フィールド競技向けのエリアがある。短距離走やハードル競技、走り幅跳びなどを行う場所だ。その周囲では、青いトレーニングウェアを着た陸上部らしき生徒たちが、ウォーミングアップを始めている。
「今日はサッカー部が校庭全面を使うから、陸上部はお休みだったはず。なのに……変よ」
「うん、ユリが言ってたもんね」
ここに来る30分ほど前、職員室から教室に戻ってきたユリはクラスメイトにそう話していた。
それなのに何故、陸上部が練習しているのだろう?
「予定が変わったのかしら? 戻ってみるわ」
「そうだね」
一瞬、怪訝な表情を浮かべたユリの横顔を見て、妙な感覚がした。
なんだろう。
何か……変な感じがする。
空の色も、風も、何も変わらない午後の日差し。
景色が違って見えるのは、二階の教室の窓からの景色と、屋上の視点の高さによる違いだけだろうか?
ユリはフェンスから手を離し、踵を返した。
スカートの裾が揺れるのを視界の隅で捉えつつ、僕も数歩遅れて後を追う。
屋上の出入り口に向かって、足早に進んでゆくユリ。
あれほど気にしていた屋上よりも、所属している陸上部のことが気になるのは、当然といえば当然かもしれない。
と、そこで屋上への出入り口の全容が視界に入った。出入り口があるのは、四角い塔のように上へと伸びた、トンガリ屋根つきの構造物だった。
コンクリートの壁に窓は無く、僕たちが出てきたアルミ製のドアがひとつだけ。開け放たれたままになっている。塔は、階段のある場所を一階から屋上まで柱のように貫いているみたいだ。
屋上から更に10メートルほど高く空に伸びた塔の上には、四方流れの青いトタン屋根が乗っかっている。先端には避雷針だろうか、尖った金属の棒が見えた。
通学のときに遠くから見える「トンガリ屋根の時計塔」の足下に、僕らは立っているのだ。
目の前には直径2メートルはありそうな、大きな時計が掲げられている。
出入り口のさらに3メートルほど上、壁に固定された大時計。それは教室の壁掛け時計の十倍もありそうな、時計の親玉みたいな迫力だ。
通学中いつも遠くから見ているけれど、ここまで近くで見たのは初めてだ。
「まって!」
「うわぶ!?」
ユリが急に立ち止まったので、僕はユリの背中にぶつかった。身体がぶつかって、柔らかい髪が頰に触れた。慌てて「ごめん」と謝って、一歩下がる。
けれどユリは気にする素振りもなく、時計を見上げている。
「……時計、遅れてる」
僕も視線を追いかけて、時計を改めて確認する。
時計の短針は3時より少し下で、長針は28分の位置にある。つまり、3時28分で間違いない。
「3時28分? あ、ほんとだ」
僕たちは、3時30分に階段の踊り場で待ち合わせた。そして二人で鍵を開けて、この屋上へと足を踏み入れた。
つまりここに来て、まだ5分ほどしか経っていない。
ならば時計は、3時35分の位置にあるはずなのだ。
「おかしいわ……! 何か変よ」
「時計が遅れているだけじゃないの?」
「ばかね、ハルト。いい? この時計は、通学路からいつも見えている時計よ? 絶対に正確で遅れたりしない。この時計を見て校庭の生徒たちも行動しているんだから」
「確かに……そうだよね」
だったら、なんで3時28分なの?
「ハルト! 鍵を!」
突然、はっとした表情で、ユリが振り返った。
「えっ!?」
「いいから!」
僕が右手に持っていたままの鍵を、腕ごと、ひったくるようにして見つめるユリ。真鍮色のカギが太陽の下で輝いた。
「一体なにさ? 鍵がどうしたっての……あれ?」
―― 金星精鋼 皇紀 2 6 6 7 製造
「読める……」
「あれ!? えっ? なんで?」
鍵に彫り込まれている文字は、さっきは掠れていたように読めなかったのに。今はちゃんと刻まれている文字が読めた。
それに『皇紀 2 6 6 7 製造』というのは何だろう? 製造番号ともちがう、まるで年号のような、不思議な表記だった。
僕は混乱しはじめていた。
ユリは何かを猛烈に考えている。
唇を固く結んで眉根を寄せたまま、星のような輝きを宿した瞳で鍵をじーっと見つめる。そして再び時計を見上げた。
「……時間がずれてるんだわ」
「はぁ? なわけあるか。時計が単に壊れて……」
「違うわ、ここの屋上……! あるいは世界そのものがズレているの」
「セカイ……何いってんだよ?」
「だって変じゃないの! あの陸上部は? 時計の遅れは? 鍵の文字は?」
「だ、だけどさ……その」
ユリは何を考えているんだろう? 僕も想像力は豊かな方だけど、それ以上に彼女は想像力が豊かで、妄想が完全に暴走しているとしか思えない。
陸上部は、予定が変わっただけかもしれない。
時計だって、単に遅れているだけかもしれない。
鍵の表記だって、薄暗い場所で見えなかっただけかもしれない。
つまり何のことはない。ぜんぶ錯覚で、単なる勘違いで……。
世界は今までどおりで何も変わるはずもなく――
あれ?
こういうの何ていうんだっけ。
変なことが身の回りで起こっても、正常だと思い込みたい心理。
そういう思考って災害とか、事件とかに巻き込まれた時、危ないんだっけ。
以前、何かの本で読んだ気がする。
正常性……バイラス。ちがうな、確か
「正常性バイアスだ」
「バカアイス?」
「ちがうよ、バイアス!」
「ハルトは何を言いたいの? 大丈夫?」
「大丈夫じゃないかも」
――シャコッ。
静かに、時計の針が時を刻む。
長針が29分を指した。
二人で見上げる時計の針は、3時29分。
時間は確実に進んでいる。そういえば僕たちは、ここに3時30分に足を踏み入れた。つまり、確実にその時間に近づいている。これ、ユリの妄想通りなら、大丈夫なのだろうか。
「ハルト、戻ろ」
短く、強い口調だった。
「う、うん」
「はやく!」
「えっ?」
ユリは僕の手首を「むんず」掴むと、屋上の入口に向かって引っ張りはじめた。
「……まずいかも。3時30分になる前に戻らないと……!」
「ちょ、ちょっ……?」
冷たくて細い指が手首をしっかりと掴んで離さない。その真剣さに気圧されて、僕も思わず足を早める。
もし、一分でも遅れたらどうなるのだろう?
まるで鬼ごっこをしている時のような、影踏みでもしているような。
ぞわっ……とするような冷たい感覚が、背後から迫ってくるような気がした。
最後は二人共まるで走るように、屋上の出入り口の扉から中に飛び込んだ。
「はあっ!」
「はぁっ……はぁ!」
たった10メートルほどの距離を来ただけなのに、ふたりとも息があがっていた。
踊り場には、コンクリートの湿った臭いが残っていた。
「はぁっ、そこを閉めて!」
「うん!」
言われるまま、アルミ製の安っぽいドアを身体全体で押すようにして、閉めた。
一瞬、空が紫がかった色に見えた気がした。
けれど血が上っているせいに違いない。真鍮色のカギを差し込んで回す。
カチリと音がして、外の喧騒は何も聞こえなくなった。
代わりに階下の三階から、一年生たちの元気にはしゃぐ声が聞こえてきて、途端にホッとする。
「ふぅ……危なかったわ」
ユリが呼吸を整えながら、背筋を伸ばす。
「ユリ、これさ……何の遊び?」
僕はヘナヘナとその場にしゃがみこんだ。
「さぁね。でも、答えをみつけなきゃ」
「えぇ? まだやるの」
「もちろんよ」
ユリは髪を耳にかきあげると、にっと微笑んだ。
<つづく>