フェンスの向こう側
◇
正直、ちょっとだけワクワクしていた。
昼休みの小さな冒険で見つけたのは、謎の鍵。
それが屋上へ通じる扉を開く鍵かもしれない。
鍵を開けた扉の向こう側には、まだ学年の誰も足を踏み入れたことの無い新天地――屋上が広がっているはずだ。
……なんて。
ちょっと子供じみた小さな冒険のきっかけを作ったのは他でもない。隣の席で真面目な顔をして授業を受けている夏野ユリだ。
一瞬、目が合ったけれど慌てて黒板の方を向く。
「で、弥生時代は結構長い――」
5時間目は歴史の授業。聞いている分には面白いのだけれど、頭を使わないぶん退屈で、だんだん眠くなってくる。けれど黒板の文字を一字一句漏らさぬよう書き写すのに一生懸命だ。
眠気との戦いを終えて、ノート2枚が文字で黒く埋まった頃、ようやく終業のチャイムが鳴った。
五分の休憩を挟んでホームルーム。
先生の話が終わって挨拶をするといよいよ放課後タイムの始まりだ。
ガタガター、ゴゴーと椅子と机の脚が奏でる大合唱が響く。途端に教室が賑やかになり、みんな一斉に動き出した。放課後の予定は様々で、部活に帰宅、遊ぶ相談をする人もいる。
「ユリ、あのさ」
この後、再び屋上探検に向かうのだろうか。
僕はクラブ活動に入っていない。代わりに図書委員の仕事がある。
夏野ユリは陸上部に所属していて、とにかく走るのが好きみたい。短距離のエースなのだとか。
「先生のとこに行ってくる」
「は? なんで?」
まさか、鍵のことを聞きに行くわけ?
声をかけようとした時には、ユリは教室から飛び出した後だった。さすが陸上部。身の軽さは野うさぎのようだ。
肩透かしを食らった僕は、仕方ないので時間を潰すことにする。教室に残っているクラスメイトの男子たちと面白動画について雑談を交わす。すると、10分もしないうちにユリが教室に戻ってきた。
入り口のところに立って、「ふぅ」とひとつ息を吐く。
階段を一気に駆け上がってきたのだろう。けれど鍛えているだけあって呼吸を乱すこともない。
教室に入るなり、まずは入り口の近くに居た女子クラスメイトと会話を交わす。
「ユリちゃん、部活は?」
「今日はサッカー部が校庭を全面使うから、陸上部は使えないの。休みかな」
「雨だと廊下を走ることもあるのに、晴れだと休みなんだね」
「そうなのよ、ワケわかんないよね」
「ねー」
そんな会話の後、自席に戻ってくるユリ。
「ハル、さっき先生に聞いてみたの」
僕の隣の席につくなり、カバンに教科書を詰めながら小声で話し始める。
「なんて?」
「校庭が使えないなら、屋上を走ってもいいですか? って」
なるほど。校庭を使えない日、陸上部は廊下を走って軽いトレーニングをして終わる。ドタバタとダッシュする音がうるさいので、僕ら図書委員にとっては天敵だけど。
「で、どうだった?」
「屋上なんて無いぞ。って」
夏野ユリが星のような輝きを瞳に宿して、僕に顔を向ける。
「怪しい。無いわけないじゃん。入れたくないってことかな……。生徒には開放してないとか」
「かもね。別に走るだけで、危ないこともしませんって言ってみたわ。けれど先生は『誰も入ったこと無い。鍵も無いから入れないよ』って」
しらばっくれてるのよ、とユリ。
「だったら、あれを試してみるしかないね」
「そうね。けど」
「けど?」
ユリは何か気になることがあるようだ。
「フェンスって見たことある?」
「フェンス?」
「ほら、屋上を囲むフェンス。見たような、見てないような」
「言われてみれば、屋根の上なんて気にしたことないね」
通学している時に見える校舎の屋上部分は……あれ?
青っぽいトタン屋根だったような……。いや、それは体育館の屋根かな。校舎はなんだか記憶が曖昧かも。
「確かめよう」
「ハルト、積極的になったわね」
「そ、そんなんじゃないけど、気になるし」
ユリはニヤリと笑うと、屋上の踊り場で落ち合いましょうと囁いた。
――集合時間は、午後3時30分
まだ教室に残っている他のクラスメイトに気付かれないように、僕も帰り支度をしてから、先に教室を出た。
二階にある教室から廊下を北へ進み、階段を一つ上った三階の北側に図書館はある。その手間にある屋上へ続く階段の前を足早に通り過ぎる。
図書室の扉を開けると、後輩の1年生の女子生徒が一人で仕事を始めていた。
「あ、せんぱい」
「充希さん早いね」
「えぇ、はい」
三冊の本を抱えた充希さんは、小柄でショートカット。大人しくてあまり喋らない感じ。仕事ぶりも真面目で字も丁寧。図書委員としては理想的だと思う。
彼女は授業が終わるなり、いつも誰よりも早く図書室に来る。よほど本が好きなのか、あるいは教室に居たくないのか……。
壁掛け時計の時刻を見ると、3時10分。
もう少しだけ時間がある。
「今日の返却図書、何冊あるの?」
「15冊ほどです」
「手伝うね」
「あ、ありがとうございます」
二人で手分けして本を元の場所に戻す仕事から始める。もう少しすると本を借りに来る生徒が増えてくるので、その前に片付けたい。
午後の光の差し込む図書室は、静まり返っていて聖なる場所に思える。古い本とインクの醸す独特の香りがほのかに感じられる。
急いで返却の本を元の書棚に戻していると、あっというまに3時25分。
「充希さん、ちょっと任せていい? 教室に用事が……」
「あ、構いませんよ」
受付カウンターにちょこんと座っていた充希さんは、にこりと小さく微笑んだ。
図書室を後にした僕は、小走りで――スパイにでもなった気分で、3階から屋上へ向かう階段を駆け上った。
時間はちょうど3時30分のはず。
「遅い!」
案の定、腕組みをしたユリが階段の終着点、踊り場で待っていた。
「遅くないでしょ」
「五分前集合が基本でしょうに。ていうか女の子を待たせないの!」
「えぇ……?」
なんだかいきなりお説教から入るのは納得出来ない。けれど今は二人で気になることを確かめるのが先決だ。
配電盤を開けて、扉の内側に隠してある例の鍵を取り出す。
「じゃぁ開けてみて」
「うん」
そして、いよいよ鍵を扉の鍵穴に挿し入れる。
入った。
そしてドアノブは右に回った。あっけなく。
「開いたかも……」
「凄いわ」
せーの、で扉を開ける。
アルミ製のドアは簡単に開いた。埃っぽくてコンクリート臭かった踊り場に、新鮮で澄んだ空気が流れ込んでくる。
そこは、案の定というか、期待通りの『屋上』だった。
まぶしい光と、青い空に思わず目を細める。
目がなれてくるなり様子を窺う。広さは幅15メートル、奥行き20メートルほどだろうか。高さ2メートルほどの、緑色のフェンスで囲まれている。
床面はコンクリートの上に何か樹脂のような、ちょうどテニスコートの表面みたいなザラザラしたものが吹き付けてある。
青い空に、少し傾きかけた午後の日差し。フェンスの網が規則的な影を落としている。
「ほら、屋上よ……!」
「なんだか普通にいい感じだね」
僕とユリは顔を見合わせると、同時に足を踏み入れた。
はぁ……と深呼吸する。空気が美味しい。
校庭から運動部員の掛け声が響いてくる。
フェンスに近づいて、景色を眺める。いつも見ている教室からの眺めとは少し違う視点は新鮮だった。
のどかな山並みの続く遠景。やや手前には田植えの終わったばかりの水田が広がり、水鏡のようにまばらな家々を映している。
ゆるやかな風が、ユリの髪を揺らす。
と、フェンスに顔を近づけていたユリが、何かに気がついたみたいだった。
「……陸上部?」
「え?」
<つづく>