屋上にいない君
「ここにいてくださいハルト先輩」
「充希さん……?」
トンガリ屋根の大時計に向かおうとしていた僕を、小さな手が引き止めている。
図書委員の後輩で、いつも真面目に仕事をして。たまに僕を叱り、ときどき好きな本の話をしてくれる、もの静かな印象の充希さん。
――私がせんぱいの彼女だったりしないかな。
思いもよらぬ言葉に、心臓の鼓動が速くなる。
振り返ると黒目がちな瞳が僕をじっとみつめていた。
「もう少しだけ、お話がしたいんです」
「話なら図書館でもできるよ」
「ここがいいんです」
大時計の下には屋上の出入り口がある。そこに僕を向かわせたくないという意思が伝わってきた。
彼女の言葉が真実なら、彼女は時間のズレた世界の住人なのだろう。
もし、僕がこの屋上にずっといたらどうなるのだろう?
クラブ活動の声、野球のボールを打つ音。ブラスバンドの下手くそなトランペット。
かすかに耳に届く学校の声は、何も変わらないように思えた。
少しだけちがう、ほんの少し紫色を帯びた空を除けば。
「僕が、ここにずっといたらどうなるの?」
「……私が、そっち側に渡ったときと同じことになります。ここにいるはずの元々の先輩は消えて、私の『せんぱい』になります」
「こっちの世界の僕と、自動的に入れ替わるってこと?」
「入れ替わるのとは少し違います。世界の可能性が分岐するんです。今までどおりの先輩がいる世界。それと私のことを色々知ってくれる、目の前のハルトせんぱいのいる世界に」
すらすらと語られる世界が分岐するという難しいストーリーは、全て真実なのだろうか? あるいは本好きの充希さんらしい皮肉のきいた、古典SFのようなジョークかもしれないのだ。けれど、今の僕にわかるはずもなかった。
「難しい筋書きだね。この瞬間に世界が分岐して、僕が二人になるとか」
「ズレた時間の差を乗り越えれば、最初から『そうだった』ことになるみたいです」
「え?」
「あと2分ほどで」
充希さんの視線が大時計に向けられた。4時19分、確実に時を刻んでいる。
「向こう側の世界にも、ちゃんと今までどおりのハルトせんぱいがいることは変わりません。何も変わらないはずです」
「だから大丈夫っていいたいの?」
「……」
充希さんは瞳を曇らせた。
「上手く言えないんだけど……僕は僕だ。ここにいるのが僕だ。あ……何か変なこと言ってるけど、とにかく……そんなのなにかちがう気がする」
「どうして……どうしてですか!?」
何も変わらない、今までと同じ。世界の様相が歴史や年号が少し違っても、ここにいる僕は僕のまま。だったらいいじゃないか、とも思う。
何が今までとちがうんだろう? 充希さんと少しだけ仲良くなって何か悪い事があるのかとも思う。図書室でいつもよりすこしだけ沢山、お話をする。それだけのことかもしれない。
けれど何かちがうんだ。
――タァン!
そのとき、スタートの合図が鳴った。
スパイクがスターティングブロックの金具を蹴る音が響く。きっと陸上部の短距離走だろう。なんどか見ていたから音の調子ですぐにわかった。
低い姿勢から一気に加速、しなやかに手足を動かして、全力で。髪をなびかせながら一瞬で駆け抜けてゆく姿を追う。
屋上にいて見えないはずなのに、その様子が鮮明に思い浮かんだ。
今、ようやく何が違うのかわかった。胸に引っかかる違和感のもと。
――ユリがいないんだ。
うるさくていつも僕を引っ張り回す、あの夏野ユリ。
分岐した鏡のような世界なら、こっちにもちゃんと「夏野ユリ」は居るのだろう。けれどそれは、別の誰かさんだ。
いちばん興味を持っていた彼女が今、ここにいない。この真実を知ったら目を輝かせて喜ぶはずなのに。こんなに肝心な時にいないんだから。
「戻らなきゃ」
「せんぱい……!」
「ごめんね。僕がここにいたら向こうに居るみんなと会えないから」
「だから! そうじゃないんですってば! あっちの先輩も、いまのハルト先輩も、同じで……分岐して、それぞれ記憶も同じなんです」
「ちがうよ」
必死で訴える充希さんが、息を飲む。
確信はないけれど、これだけは言えた。
「だとしても、それはもう僕じゃないんだと思う」
小さな手が離れる。屋上の出入り口、扉に向けて僕は歩きだした。
「……せんぱい!」
僕を呼ぶ声がした。けれど振り返らずに大時計の真下まで進む。
歩き出せばわずか数歩の距離だった。開いたままだったアルミサッシの扉に手をかけてくぐり抜ける。
振り返ると充希さんが立ち尽くしていた。
唇をぎゅっと噛んだ悲しそうな表情が胸に突き刺さる。
なんと声をかけたらいいのだろう。屋上で往来できる異世界の真実を知ったまま、元の世界と自由に行き来してもいいんじゃないだろうか。そうすれば……ユリも喜ぶし。
「あのさ……。こっちに戻らないの?」
けれど充希さんは息を吸い込むと、小さく微笑んだ。
「そっちの私をよろしく……です」
「充希さん」
「ハルトせんぱいの言うとおりです。私はここにいる私が、やっぱり私ですから」
「なんだかこんがらがってくるね」
「そうですね」
思わずお互いに笑みがこぼれる。いつも図書室で交わしている自然な笑み。
その時、風が吹き抜けてアルミのドアを押し閉めた。それはほんの一瞬の出来事だった。
慌ててドアノブに手をかけて、押し開けた。
「あ……」
オレンジ色のさみしげな夕焼けが空を染めている。
そこに充希さんの姿はなかった。
<つづく>
★次回、完結




