シュレーディンガーの猫
――私は、向こう側の世界から来ました。
充希さんの告白が、頭の中でリフレインする。
向こう側、つまり「時間が10分ほどズレた世界」のことを言っているのだとしたら、彼女は何者なのだろうか。
充希さんがスカートの裾をひるがえし、軽やかな足取りで階段を登ってゆく。踊り場を曲がるといちど立ち止まり、こちらを振り返った。
「せんぱい、はやく」
「う、うん……」
階段の反対側から差し込む西日で、空間全体がオレンジ色の光に満たされている。踊り場を曲がって上ればもう屋上へと通じる扉がある。
誘われるまま階段をのぼる。
そもそも、どうして充希さんは、僕とユリの行動に気がついたんだろう?
不思議な後輩の言動を思い返してみる。
いつも図書室にいて静かな彼女。確実に丁寧に、図書委員の仕事をこなす充希さん。
古いSF小説についての会話も、今になって思えば自分自身や、謎の屋上のことを匂わせていたのかもしれない。
それともうひとつ。彼女は僕やユリと同じ地区に住んでいて、ご近所さんだという。そのことを知ったのはつい昨日のこと。正直、それまでは彼女の存在を意識したことはなかった。
僕が気づかなかっただけなのか、それとも……。
本当に彼女は昔から近くにいたのだろうか?
「よっと」
つま先立ちをして配電盤に手を伸ばして、充希さんは蓋の裏側から鍵を取り出した。迷う様子もないところを見ると、本当に鍵を隠したのは彼女なのだろう。
「その鍵……充希さんのだったんだね」
「はい。正確には向こう側で使われていた屋上の鍵、ですけど。借りてきちゃいました」
「なんだか、いつもの充希さんじゃないみたい」
「そうですか? いつものって、いつのです?」
「それは……」
禅問答のような言葉のやりとりを聞き流すと、 充希さんは鍵をドアノブの鍵穴に差し入れた。カシュッと軽く金属の擦れる音がして、扉が開いた。
「はい、どうぞ」
屋上へと、軽やかな足取りで進む後輩は、数歩先で振り返った。
「せんぱい?」
「う……ん」
けれど僕は、屋上へ足を踏み入れることを躊躇った。
何の変哲もないアルミサッシが、別世界との境界線だと思うと少し怖くなった。
「何してるんです? 気持ちいいですよ」
僕はその声に引かれるように、境界を踏み越えた。
新鮮で濃密な空気が肺を満たす。いつもより酸素が濃くて、オゾンの香りさえする。
夕日に染まっているのは図書室前の廊下からみた風景と同じ。けれど空の色は少しだけ紫色を帯びている。
屋上の中央まで進んで振り返ると「トンガリ屋根の大時計」が見えた。
時間は4時10分。
4時15分過ぎに図書室を出たはずなのに、時間が巻き戻っている。いや、10分ほど遅れているのか。
簡単には信じられなかった出来事が、ふたたび目の前で起きていた。ここはやっぱり時間のズレた場所。教室から見える学校の周囲と、フェンス越しの風景もどことなく違ってみえる。
「せんぱい」
はっとして振り返ると、すぐ後ろに充希さんがいた。ちょうど視線の高さに、前髪を止めたネコの髪飾りがある。
「あ、あのさ充希さん」
「タネあかしをしましょう」
「タネあかし?」
「ここが本当の世界ですよ」
「……え? どゆこと」
充希さんがゆっくりと視線を動かし、屋上を囲むフェンスの向こう側に向ける。
運動部の掛け声が同じように聞こえてくる。けれど、いつも見ている風景と何かが違う気がした。
「今は皇紀2679年。裏側の世界では西暦2019年ですよね」
「どっちが本当で表かなんて、わからないと思うけど」
「早く気がついたほうが表なんだと思います」
「なるほど」
なんとなく納得する。
「裏側の世界のことはここでは常識です。もうひとつの可能性。いわゆる並行世界だって。偉い学者先生たちがテレビで言ってました」
「テレビで……並行世界?」
きょとんとする僕だけど、受け入れがたい話じゃない。創作物語やSFじゃ繰り返し使われてきた言葉だから。
その時、視界の隅に飛行機が横切っていくのが見えた。国際線のジェット機だろうか。はるか上空で飛行機雲をひきながら――4枚のトンボみたいな半透明の翼がキラリと夕日で輝いた。
「……えっ?」
見たこと無い飛行機だった。たまたま飛んでいる新型とか、そういう感じではない。ふつうに見慣れない形の飛行機が飛んでいる。
まてまてまて……何なのこれは。
笑いだしたり、あるいは泣き叫んだり、カメラはどこ!? と騒ぎ出したい気持ちを押し込める。
混乱する頭をフル回転させて、なんとか状況を整理する。
とりあえず、落ち着け僕。
予想通りじゃないか。
ここは時間のズレた別の世界なんだ。年号や飛行機が多少違っていても不思議じゃない。
「せんぱいの住む世界は、この世界の裏側なんです。仮説では無数に生じる『可能性の泡』みたいな存在で、無数に分岐しては消えていく世界だって。最新の研究で明かされてきたみたいです」
「すごいね、ついていけないや」
「でも、そこに自由に出入りできる場所の出現はランダムで、私みたいに『鍵』を見つけた人はすごく幸運なんです」
本のあらすじを説明するようにゆっくりと、言葉を紡ぐ。そして大事そうに「秘密の鍵」をそっと手で包む充希さん。
「つまりその……君はこの世界の人なの?」
「半分正解で、半分違います」
「どうゆうこと?」
「せんぱいの世界にも私、ミツキは居ます。けれど私が屋上からそちら側に渡った瞬間、世界線が一本ずれてシフトして、元々いたミツキは押し出されて私になるんです……。上手くいえませんけど、最初から私が『居た』ことになるんです」
僕はすごく困惑した顔をしていたのだろう。
うぅとか、あぁとか、うめき声しか出てこない。
「私の場合、きっかけは屋上の鍵でした。扉を鍵で開け締めするごとに、世界が変わるんです。似ているけど違う世界。屋上が『シュレーディンガーの猫』みたいに、状態が決まっていないんです」
「シュレーディンガーの……猫」
聞いたことがある。箱に猫を閉じ込めて、ガスの噴射装置をつけて。何かの仕掛けで二分の一で毒ガスが出る。その時、猫は生きているのか、死んでいるのか、定まらない両方の状態が重なっている。
確か思考実験の一種だ。異なる世界同士でも言葉の意味は同じらしかった。
充希さんは猫の髪かざりを指で整えて、僕を上目遣いで見ている。
「今回の世界も状態は決まっていませんした。けれど、いちばん楽しかったです」
「君の言う状態って、なんのこと?」
疑問に思ったことを口にすると、充希さんは少し困ったような照れたような顔をした。
「せんぱいと私のことです」
一歩、猫の髪飾りが近づいてくる。
「充希さんと、僕?」
それは図書室の後輩と僕のこと? 図書室で一緒に仕事をして、他愛のない話をした二人の状態。
「にぶいです。ほんとうに、せんぱいは」
怒ったように眉根を寄せる。
「わかんないよ」
「どこか違う世界では、私がせんぱいの彼女だったりしないかなって、思ったんです。そんな場所を見つけたかったから……」
「え…………?」
風が止まった気がした。
凪のような無音が、あたりを包む。
ネコのように丸い瞳が僕をじっと捉えている。
彼女? 誰が? 充希さんが? 僕の? なんで――
カチリ……。
不意に、音がした。
それは時計の、トンガリ屋根の大時計の針が進む音だった。
僕はハッとして振り返った。
見上げると、時間はいつのまにか4時18分を指している。
別の世界の屋上に来てから既に8分以上経過していた。
帰らなきゃ……!
不意にえもいわれぬ焦燥感が湧き上がった。
「もう少し、ここにいてください」
気がつくと充希さんが僕の袖をつかんでいた。
「充希さん?」
「おねがいです、ハルト先輩」
「……!」
カチリと、長針がまたひとつ時を刻んだ。
<つづく>




