幼なじみの腹パンチ
階段の踊り場から見上げると、屋上へ続くアルミ製のドアは開け放たれていた。
そこからは暗い空と、濃いオレンジ色に縁取られた雲が見えた。
冷たく湿った風が吹き下ろしてくる。
――まさか、ユリは一人で屋上へ!?
あり得る。
考えなしの思いつきで行動するのは、ユリの十八番だ。
行動力だけはある。時間があるのをいいことに、一人で再び鍵を開けて、秘密の屋上探検に行ったのかもしれない。
無性に心配になってきた。長い時間あちら側に留まっていたら、何が起こるか分からないのに。
衝動的に階段を駆け上がり、屋上へ飛び出そうとしたところで立ち止まる。
落ち着け。
ユリが無鉄砲で考え無しでも、僕まで同じ行動をしちゃダメだ。
すぐ横の壁には配電盤のボックスがあった。
金属製の取っ手を回してから引っ張って開く。そして蓋の裏側に隠してあるはずの「秘密の鍵」の存在を確かめる。
――あった……!
指先に触れたのは、確かに鍵だ。
もし彼女が屋上のドアを開けたなら、わざわざここに戻し、屋上へ足を踏み入れるだろうか?
1時間ほど前、僕とユリはこの鍵でドアを開け、そのまま屋上へと侵入した。
その時は鍵をここに戻したりせず、ポケットに入れたままだった。
つまり……この扉を開けたのは別の鍵? 別の誰かなのかもしれない。
僕は、気配を悟られぬように配電盤のフタを静かに閉めた。
と、その時だった。
屋上の薄闇の向こうから人の気配が近づいてきた。鼻歌交じりで、ガチャガチャと金具の音を響かせながら。
のしのしと歩く気配からして大人だ。
僕は慌てて、後ずさるようにしながら静かに階段を下りた。
背後で、ドアをガチャンと閉める音。続いてガチャガチャと鍵をかける音が響く。
踊り場で振り返ると一瞬だけ背中が見えた。作業着姿の用務員さんだ。
手に持っているのは鍵の束。おそらくメンテナンス用の鍵セットだろう。
――そうか、用務員さんも鍵を持っているんだ。
今更ながら気がついた。職員室には屋上へ行く扉の鍵は無かった。けれど校舎のあらゆる場所を管理する用務員さんなら、鍵を持っていて当然だ。
踊り場を静かに過ぎて、三階の階段から更に下りて二階へと向かう。万が一見つかっても「教室に忘れ物を取りに来た」と言えばいい。
やがて用務員さんは、腰に下げた鍵の束の音を響かせながら3階の廊下へと曲がり、北側の非常階段へ向かっていったらしい。やがて遠くから重々しい金属扉を閉める音が響いた。
きっと施錠の確認をしているのだろう。
僕は息を殺し、足音を立てないように気をつけながら更に階下へと下りた。
でも、結局ユリは何処に行ったのだろう?
屋上から息を潜めて下りてきたせいか、息が苦しい。胸騒ぎもまだ続いている。
結局ユリを見つけていない。
待ち合わせの時間を過ぎてもユリは現れなかった。もうすぐ5時近くになろうとしている。
もうこのまま校門に戻るしかない。
人気のない下足箱で靴を履き替えて、校門へと向かう。
校舎の外に出て空を見上げて気がついた。
さっき屋上でみた空と同じだった。
青黒く沈んでゆく空の西側は、残照に照らされたオレンジ色の薄雲が残っている。湿った風の匂いも同じ。
つまり用務員さんの持っていた鍵で開けた屋上は、この世界と同じという事だろうか? 「時間が10分ほどズレた世界」ではなく、普通の場所。
――開ける鍵によって行き先が違うのかな……?
そんな事を考えながら校門へ近づいたときだった。
「遅いぃいいっ!」
「ぐえっ!?」
ドガッ! といきなり横から体当たりをくらった。そのまま桜の樹に身体を打ち付ける。
「遅い! おそいってば! ハルトは女子を何時まで待たせる気?」
「え、えぇ……?」
ユリだった。
思わずほっとしたのも束の間、さらに「腹パンチ」が僕を襲う。
「この、このっ」
「いたい、痛いってば!?」
体当たりでふっ飛ばしただけで飽きたらず、大振りなボディブローをねじ込んで来る。
身体をくの字に曲げて一方的にボコられる僕。
先生助けて! 校門前で女子に虐められてます。
ユリが元気そうなのは何よりだけど、こんな場面を誰かに見られたらマズイでしょ。と、その時。視界に女子生徒の姿が映った。
「……!?」
制服の上に薄いカーディガンを羽織った女子。青い通学用のリュックを背負ったまま立ち止まり、こちらを唖然とした表情で見ている。
「ちょ、っとタイム! まてまて、ほら、見られてるし……」
「あれは図書委員の一年生! ハルトが校舎に戻って行ったところを見てて、教えてくれたから、こうして待っててあげたのよ」
ユリが攻撃の手を止めて、ニッコリしながら一年生に向き直った。
小さな身体に不釣りあいなのでリュックが大きく見える。
「……充希さん」
それはさっきまで図書室で一緒だった、後輩の充希さんだった。
ショートカットの前髪を猫のピンで留めた彼女は、僕を見て小さく会釈をする。口元が緩やかな弧を描く。
「ありがとね、おかげで身柄を確保したわ」
「よかったです」
「なんで充希さんが……。結構前に帰ったはずじゃ?」
「教室に忘れ物を取りにいって、友達と話していたので。そしたら廊下を駆け上がってゆく先輩を見たんですけど」
充希さんはそれを校門前で待っているユリに伝えてくれたのか。
あれ? ユリと充希さんって顔見知りだっけ?
ユリは本に縁が無さそうだし、接点も無いような。
「怪しい行動は見られているものよ。気をつけなさい」
「なんで犯人みたいな言われ方なのさ」
「とにかく。こうして健気に待っててあげたんだから、感謝しなさいよ」
いやいや、待って。
「てか! そもそも4時30分に来なかったのはユリのほうじゃん……」
強く抗議したかったけれど、すぐにトーンダウン。べつに腹パンチが怖いわけじゃないけど。
「ほんのちょっとだけ遅れて来ただけでしょ」
悪びれもせずしれっと言うと、門柱脇に置いてあった自分の通学用のカバンを持ち上げる。
「え? ほんのちょっとってどれくらい?」
「……ほんの10分ぐらい?」
ユリは下唇を指先で持ち上げながら、視線は空へ。
「10分!? こっちは四時半前から来て待ってたのに、来ないから探しに戻ったんだよ」
心配して探しに行った、とは言わないけれど。でも、ちょっとだけ嫌な予感がしたから。
「あー……すれ違いだったのね」
心配して損した。
けれど、どつかれたおかげで緊張やモヤモヤした嫌な予感も消えた気がした。
僕はたぶん安心したんだろう。ドッと疲れた。
「もういいよ。帰ろう」
「そうね」
すっかり日も暮れた。
山の尾根の向こうに太陽は沈み、薄闇が辺りを包みはじめる。
すたすたと歩きはじめるユリと帰路につく。
じゃぁね充希さん! と言おうと振り返ると、真後ろにいた。ぴったりと僕とユリの後ろをついてきている。
「……あ、帰る?」
しどろもどろで変なことを聞いてしまう。
「はい」
「ごめんね、ユリが引き止めちゃったみたいで」
水を張った水田を渡る風が心地良い。真っ直ぐに住宅街まで続く農道に、街灯が灯り始めていた。
ゲコゲコ……と気の早いカエルが水田で鳴き始めている。
「いえ、二人の痴話喧嘩が見られて楽しかったです」
いつもの図書委員の表情で、感情を押し殺したような顔で言う充希さん。
痴話喧嘩。それは仲良しのカップルがするケンカだ。
僕は一方的に理不尽な暴力を受けていただけだと思うけれど……。
「ケンカってか一方的にやられただけだよ、暴力はんたい」
小さくシュプレヒコールをあげる。
「仲いいですよね」
頼むから無表情のまま言わないで。
幼なじみの腹パンチが「仲がいい」という一言で済まされたら困るから。
「いや、その……全然」
「全然、ですか」
「うーん」
それはそうと、歩きながらユリにさっきの新発見の報告をしようと考えた。
屋上の鍵が別にあること。それはおそらく普通の鍵であること。
けれど充希さんが後ろにいる。
二人だけの秘密の話なので、報告はあとにしよう。
ユリも何か言いたそうな様子だけれど、歩く速度を落とすと後ろの充希さんと並んで歩きはじめた。
僕は一人で少し先を歩くことにする。
後ろでは女子同士、他愛もない学校でのことを何やら普通に話している。
「……」
ていうか、同じ方向に歩いているってことはご近所さん?
僕とユリは家が近くだから仕方なく歩いているだけ。充希さんに確かめようかと振り返ると、ユリがじぃと僕を睨んでいた。
「私の家も同じ方向なんですけど」
聞きたいことを察してくれたのか、充希さんの方から切り出した。
「えっ? そうだっけ?」
衝撃的な告白だった。やっぱりご近所さん?
「ていうかさ、充希ちゃんって近所だよ! 子供会のころから居たじゃん」
「はい」
ユリの言葉に、こくりと頷く小柄な下級生。
「そ、そうだよね? うん……」
取りつくろってはみたけれど、まるでイメージが思い浮かばない。近所にいたっけ……?
子供会とは小学生ころ、地区の子どもたちで集まっていろいろな行事に参加する活動のことだ。
田舎では春夏秋冬、季節ごとにいろいろな事をする。
ゴミ拾いの奉仕活動や、夏祭りへの参加、秋の地域文化祭の準備や、冬の餅つき大会などなどだ。
活動は主に土日や祝日など。内心とても面倒くさかった。けれど朝になるとユリが迎えに来て玄関のドアを叩くので、しかたなく一緒に参加していた。
小学校に上がると同時に強制参加、6年生になるまで毎年何かに参加していた気がする。
夏野ユリはいつも元気で、僕は引っ張り回されていただけだけど。
確かにその時、後輩の小さな子たちも大勢いた。ワイワイとうるさくて、上級生になると下級生たちの面倒もみなきゃならないので大変だった。
その中に、充希さんもいたってことだよね、多分。
印象が薄いのは、もしかして中学生になってから髪型を変えたとか、イメチェンとかしたのだろうか。
「……いましたよ、ずっと」
充希さんが囁いた声は、カエルの合唱にかき消された。
<つづく>




