屋上へ行こう!
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「ウチの学校にも屋上ってあるわよね……?」
教室の窓から外を眺めていた夏野ユリが、こっちを向いて話しかけてきた。
「え? 屋上がどうしたって?」
読書をしようと文庫本を広げていた僕――桜樹ハルトは、夏野ユリの問いかけを聞きかえした。
ここ、春日野中学2年A組の教室は、お昼休みの真っ最中。みんな給食を食べ終えてお腹いっぱい、ちょっとガヤガヤと騒がしい。
僕は手元の文庫本から、隣の席に座っている夏野ユリに視線を向ける。
窓ぎわの席に座っているユリは、卵みたいな輪郭の顔を右手の甲で支え、机に片肘をついていた。肩の長さで切りそろえた髪が、蜘蛛の糸みたいに光を集めて光っている。
真っ青な5月の空には、ぷかぷかと綿菓子みたいな雲が浮かんでいて、小鳥たちが自由気ままに飛んでゆく。
僕は眩しさに思わず目を細めた。
「聞いてる? 屋上よ、屋上! 行ってみたいなって思って」
小鳥のさえずりとともに、夏野ユリの声が耳に届く。
四角いアルミサッシの窓枠を背にした彼女は、まるで絵画みたいな構図に見えた。別に絵になるって意味じゃない。そんなふうに見えたのは気の迷いだ、きっと。
「あぁ……うん? 屋上ね」
眩しさに目が慣れてくると、じーっと見ている夏野ユリと視線が合った。
「屋上はあるけど、あそこは立入禁止だぞ」
僕の知る限り、屋上は普段施錠されている。
同じようなことを考える生徒は他にも居て、階段の踊り場の更に上、屋上への入り口を目指して階段を上ってゆき、そして落胆して戻ってきたのを知っていた。
「えっそうなの!? ……ガーン」
「口でガーンて言うやつ、始めて見た」
「ショックだもん」
夏野ユリは、ガッカリした様子で机に突っ伏した。
その様子がちょっと面白くて、思わずくすっと笑ってしまう。
本来なら、ここで「なんで屋上に行きたいのさ?」と、親身になって聞くべきだろう。
けれど深追いは禁物だ。
面倒なことに巻き込まれそうな予感がビンビンする。これは経験から来る、勘。
僕と夏野ユリは家が近所で、いわゆる「幼なじみ」というやつだ。幼稚園からの友達付き合いを重ねる中で、いろいろと苦い経験をしているのだ。
遡ること幼稚園時代――。
男子顔負けなほどに活発だったユリに、僕は終始引っ張り回された。
好むと好まざるとに関わらず、家が近いからという理由で、下僕のような扱いを受けた。引っ込み思案だったおかげで、彼女に引っ張りまわされてはひどい目に遭わされてきた。
用水路で「ザリガニが欲しい」と言われ、泥だらけでザリガニを捕獲させられたり。
ある時は柿の実を「毒味して」と言われ、齧ってみたら渋柿だったり。
まるで主人と奴隷みたいな感じだったと思う。
その経験の積み重ねが「気をつけろ」と警告を発している。
これはアラートでワーニングだ。それにもう中学生なのだから、もうユリに振り回されない、自由に、我が道をゆくんだ。
昼休みは静かに、読みかけの本を読み進めたい。
話に興味が無いふりをして、手元の文庫本に視線を戻す。
ゴーイングのマイウェイだ。
「ねぇちょっと。私が屋上に行きたいわけ、聞きなさいよハル」
ほらきた。
ずいっ、ずいっと机を寄せてきて身を乗り出し、さらに身体を傾けるユリ。
「べ、別に興味ないし。どうでもいいんだけど……」
「どうでもよくない」
「いや、ほんとに」
勘弁してください。
文庫本のページをめくっても、一文字も頭に入ってこない。ここはもう諦めて、半分だけ聞いたふりをして受け流すことにするべきか。
「いいから! 聞きたいでしょ? 私が屋上に興味をもったわけ」
しつこい。そんなに話を聞いてほしいのか。しょうがないなぁ。
「実は昨日ね」
「勝手に話し始めた!?」
ご、強引すぎる。
こうなるともう、聞き手に回るより他はない。
なんたって「女の子は話を聞いてほしい生き物だぜ……!」っていうお父さんの、疲れ切った顔が脳裏に浮かんだからだ。
僕の妹も、従姉妹たちも、そして近所に住む夏野ユリも。みんなおしゃべりが大好きで、話しはじめたら止まらない。
はぁ、と思わずため息をつく。
「何よ、その顔」
「生まれつきこの顔だよ」
「ハルの顔は昔からそうだけど。って、そんなことはどうでもいいから、ちゃんと私の話を聞きなさいよ」
ユリが「むー」と頬をすこし膨らませてにらんでくる。
不機嫌になるとさらに面倒くさい。ここは真剣に話を聞いたほうがよさそうだ。
「わかったよ。で話って一体、屋上がどうしたって?」
「そうそう、それなんだけどね。ドラマとかアニメとかでよく、屋上のシーンってあるじゃん?」
じゃん? といいながら左右の手の指先を合わせて、傾けるユリ。制服の袖口から見える手首がすごく細い。
「あー、あるある」
適当に相槌を打つ。
「でしょー? だから私も屋上で、ああいう感じで、こう……わーっ! って。あー、なんて言えばいいのかな? とにかく楽しくて素敵なことを、してみたいなーって思ってさ」
楽しそうに話しはじめるユリ。機嫌も一瞬で良くなったみたい。あぁめんどくさいなぁ。
「うん……?」
「ね! いいと思わない?」
「と言われてもね……」
隣の席からは「ハルはどう思う?」と、次の反応を期待しているらしく、キラキラとした瞳が向けられている。
ユリが言いたいことはなんとなく、わかる。
今、おそらく想像するに夏野ユリの頭の中には、校舎の屋上で繰り広げられる映画やドラマのワンシーンが、リプレイされているのだろう。
お母さんが夢中なアイドルが出演する青春ドラマでも、屋上で高校生の男女がイチャイチャする恥ずかしいシーンがあった。
妹の観ているアニメでも屋上で、友達どうしでお弁当を食べたり、仲良くおしゃべりをしたりするシーンが出てきた。
そういえば僕が好きなマンガでも校舎の屋上でのバトルシーンがあったっけ。
とにかく屋上にはそんな「特別な事が起きる」イメージがあるわけだ。
「屋上でバトルがしたいってこと?」
「はぁ!? 違うわよ。どうして男子って バ カ なの?」
「バカを強調しないでよ」
小学生の時なら更に「バーカ、バーカ!」とおまけが付いてきただろう。自分の期待している反応と違うというだけで、言葉の暴力だ。
「ユリは屋上に夢を持ちすぎだろ。行けば何かあるのかよ」
少なくとも僕の頭の中では、ライバルが互いに全力で技を出し合って戦う、バトルシーンぐらいしか思いつかない。
そもそも屋上には行けないのだから、そんな事も起こるはずがないのだけれど。
「何って……うーん。とにかく素敵な事はあるわね」
ユリは具体的な言葉を探しているのか、ちょっと考える。イメージだけが頭の中にあって、言葉でうまく言い表せないのだろう。
「何をしたいかはさておき。とにかく、屋上は立入禁止で誰も入っちゃいけないみたいだし。諦めなよ」
「屋上に入っちゃダメってこと?」
「ずっと閉鎖されてるだろ。知らなかったのかよ」
「だってー」
ぷくーと頬を膨らませる。
そんな顔をされても困る。風船みたいなほっぺたを突っついてやりたいけれど、仲良しだと勘違いされてからかわれても困る。
「とりあえず、さ」
ユリがガタリと椅子から腰を浮かせた。
「え?」
「行ってみようよ!」
「だめだよ、怒られるって」
立ち上がり僕の腕をぐい、と持ち上げる。
「いいから! その時はハルのせいにするから!」
「はぁ!? ちょ……っ」
昼休みの喧騒にまぎれて、僕とユリは教室を抜け出した。
<つづく>