5 ドラゴンさん、自己紹介
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『まったく、ダンジョンでは想像もできない事が起きるなんて言うけれど、これは極めつけよね』
黒猫だ。
きれいな光沢を持った毛並をしていて、足の先だけが白い。
ゆったりとしっぽを揺らして、ピンと立った耳はしきりなく動いて、辺りの音を拾っているのがわかる。
音もなく歩く姿は滑らかでいて、どこか気品のようなものを感じた。
僕をじっと見つめる黄色い目が印象的だ。
でも、僕の知っている猫は人の言葉をしゃべったりしないはず。
「にゃあん?」
『バカなの? そう、バカなのね。さっきから人の言葉を使ってるのわからない? ちょっとは考えて行動なさいな』
叱られてしまった。
「そっか、猫って話せたんだ」
『そんなわけないじゃない。本当にバカね』
僕がバカなのは本当だけど、冷たい黄色の目が痛い。
『あの人』から色々と教えてもらって、他の竜よりは物知りな気でいたけど、こうして人間になってみると知らない事が多いんだとよくわかってしまった。
僕が落ち込んでいると黒猫さんは人間っぽく溜息を吐いた。
『本当に変な子ね。『ひとつも嘘をついていないのはわかっている』けど、ドラゴンのくせしてこんな小さな猫になめられて怒りもしないなんて』
「ドラゴンって何? さっきもその子が言ってたような気がするけど」
『ドラゴンは竜って意味よ。さっきからダンジョンを迷宮って言ったり、古い言葉を使うなとは思っていたけど、そもそも知らなかったのね』
へえ、ドラゴンにダンジョンかあ。
知らない間にそんな風に言うようになっていたんだ。勉強になるなあ。これからは僕もそうやって言おう。
うん? 迷宮、ダンジョン……何か大切な事を忘れているような?
『それでまずはあなたに何があったのか詳しく聞いてもいいかしら? あたしたちの事情とかも話すべきなんでしょうけど、あなたの状況というか事情の方が特殊すぎて、それを聞かない事には何も判断できそうにないの』
どことなく申し訳なさそうに言う黒猫さん。
話すのは全然問題ない。
というか、僕はわからない事が多すぎて、話を聞いても理解できる自信がないし。
「それはいいんだけど、どんな事を話せばいいの?」
『覚えている事は順番に、と言いたいけれど、それじゃあきりがなさそうね。とりあえず、このダンジョンに入った時からでいいわ』
そう言ってもらえると安心だった。
昔の事を全部だと百年以上の思い出があるから大変だ。
「えっと、僕は死んじゃったと思ったんだけど……」
僕は言われた通り、このダンジョンの洞窟で目を覚ました時から何があったのか、一人と一匹に話し始めた。
『そう。なかなか興味深い話だったわ』
僕が話し終わると、黒猫さんは前足を女の子の足にのせた。
『シアン、さっきも言ったけど、この子は嘘をついてないわよ』
「え、そのぅ、ドラゴンが人間になったって話も全部?」
『少なくともこの子は本気で信じているわね。それが真実とは限らないけど』
「少なくとも道連れ兎を倒して生き残っているのは間違いないですけど……」
『それも実際に彼が倒したとは限らないわよ? 死んでいたのを拾っただけかもしれないじゃない』
「じゃあ、やっぱり仲間に裏切られて……」
『残酷な事ね。心が壊れてしまったのでしょうね』
あ、信じてもらえてなかったんだ。
やっぱりドラゴンが人間になるっていうのは普通じゃないんだなあ。
『とにかく、まずは自己紹介でもしなさいな。正体不明だけど、『悪い子じゃないのだけは確か』よ。普段なら関わらない方がいいのでしょうけど』
「え、放っておけませんよ」
『そう言うと思ったわ。あたしからしたら放っておけないのはあなたの方よ。まったくおせっかいなんだから』
さっきよりも深い溜息を吐く黒猫さん。
そのじとっとした視線から逃げるようにそっぽを向く女の子。
なんだか仲良しなのが伝わってきてうらやましい。僕も仲間に入れてほしいなあ。
『もっとも、助けられるのはこちらかもしれないわよ。その子、自分がドラゴンなんていうぐらいにはすごい魂魄をしているわ』
「そうなんですか?」
女の子が僕の方を見てきたから手を振ると、首を傾げられてしまった。
「本当ですか? あまり強そうには見えないですけど……」
『ええ。まあ、あんな様子からは想像できないのはあたしも同じだけどね』
強そうに見えないなんて……新鮮だ!
ドラゴンの時では考えられない言葉だった。
『さっきの『お友達になってください』っていうのも本当みたいだし、ちょうどいいんじゃないかしら?』
「なんだか利用するみたいで気が進みませんが、いいです。わかりました……」
女の子はうんと一回頷くと、平らな胸を張って、ばっと手を広げて――ちょっと何か物足りなかったのか残念そうな顔で僕の腰に巻いたローブを見て――それから気を取り直して僕を指差し、自信に溢れた笑顔を見せてくれた。
「わたしはシアン・セル……いえ、シアン・ブリュー! 見ての通り、体も心も綺麗だから精霊に愛されてしまった、罪深くも才能あふれる大魔導使い! 未来のウィザードマスターです! あまりに魅力的だから、思わず好きになっちゃうのは仕方ないかもしれませんので、お友達になってあげましょう!」
やってやりました、って感じで満足そうな女の子――シアン。
僕はずっと持ったままだったウサギを放り出して、思わず彼女が突き付けていた手を握りしめた。
「きゃあっ! ちょ、ちょっと、大胆すぎですよ! そういうのは段階を踏んでからというか、ゆっくりとお互いを理解しあってからというか……」
「ありがとう! やった! 初めての友達だ!」
喜びを爆発させる。
すごい。人間になった途端に友達ができるなんてすごすぎる。ドラゴンの時じゃ本当に考えられなかった。
握った手をブンブンと振っていると、シアンは段々と顔を赤くしていく。
「も、もう。そんなに嬉しいんですか?」
「うん! 最高だよ!」
「ふ、ふーん、そうですか。最高ですか。ふふ、わかってますね」
シアンもにまにまと笑っていて喜んでいるみたいだ。
彼女はとっても機嫌がいいみたいで、笑ったまま聞いてくる。
「それであなたの名前は?」
「僕の名前? ないよ」
昔から『あの人』は僕の事を『君』とか呼んでたけど、名前はくれなかった。
なんだったっけ、たしか『名前を付けると竜としての在り方が決まってしまうから』だったっけ?
よく意味はわからない。
けど、困った。
名前がないと友達と自己紹介もできない。
「……すみません。元ドラゴンというなら名前がないのも仕方ないのに嫌な事を聞いてしまいました。名前がないなんて寂しかったでしょう?」
悲しそうな顔をするシアン。
僕の名前がないせいで友達を悲しませてしまい、ますます困ってしまう。
けど、僕が困っている間に彼女はギュッと僕の手を握り返した。
「いいでしょう! 名前がないならわたしがつけてあげます!」
「え?」
「あ、もしかして、嫌だったりしますか?」
僕が驚くと、シアンは途端に不安な顔になる。
嫌なんて事はない。
初めての友達が、僕の名前を付けてくれるなんてすばらしいじゃないか!
「ううん。すごい嬉しい」
「ふふ、そうですか。そうですよね。光栄に思っていいですよ? とっても素敵な名前を付けてあげますからね!」
笑顔になってくれて僕も嬉しい。
シアンはうーんとしばらく考え込んでいたけど、何か思いついたみたいですぐに自信たっぷりの笑顔になる。
「レオン・ディーなんてどうです?」
「……レオン?」
「そうです。音感にそれとなくはドラゴンっぽい感じを出してみました。我ながらなかなかのセンスだと思いますね! どうです!? 」
レオン。
レオン・ディー。
なんだろう。
そう呼ばれたら胸が熱くなってきた。
マナを生命力や魔力に変換した時のそれとも違う温かさ。
この気持ちをなんて呼べばいいのか、僕にはわからないんだけど、いいものなのは間違いない。
「あの……まさか、気に入らなかったですか?」
「いや、嬉しい。レオン。僕はレオン。レオン・ディーなんだ……ありがとう、シアン! すごくすごく、すっごく嬉しいよ!」
「そ、そうですか。ええ、わたしが考えたんですから当然ですけどね!」
自分で名前を呟くたびに実感が湧いてきて、初めての友達ができた時以上の喜びが込み上げてきた。
なんだかもじもじしているシアンの手を握り締めた。
「僕はレオン。よろしくね!」
「ええ。こちらこそ」
お互いに喜び合っていると、僕の足が柔らかく踏まれた。
何かと見下ろすと、呆れた黒猫さんと目が合う。
『はいはい。お人好し同士で仲がいいのは結構な事だけど、話が進まないからそれぐらいで落ち着きなさいな』
ああ。嬉しさで飛んでしまっていたけど、自己紹介の途中だったんだ。
僕が手を離すと、シアンはちょっと寂しそうに手を開いたり閉じたりしていた。
『あたしはノクト。妖精なんて呼ばれる事もあるわね。この子の保護者よ』
差し出された前足を優しく握る。
フニフニした肉球が柔らかくて、なんだか幸せな気持ちになった。
「うん。妖精かあ……妖精ってなに? しゃべれる猫の事?」
首を傾げるとまた溜め息を吐く黒猫さん――ノクト。
『バカね、妖精も知らないの? 妖精は精霊の影。精霊としての在り方から離れる事ができない精霊が、自らの意識を器に移して自由を得た存在よ。もっとも、精霊によっては無意識の内に分裂する類もいるから、妖精といいながら精霊と完全に分裂してしまう場合もあるけどね。もちろん、あたしはそうではないけど』
うん。よくわからない。そもそも精霊ってなに?
僕の表情から察してくれたみたいで、シアンが簡単に教えてくれた。
「わかってないみたいですね。いいですか? 精霊はすごいマナを持った存在で、妖精はその精霊の子供みたいな感じです」
『ちょっと待ちなさい、シアン。いくらなんでも適当に説明し過ぎよ』
なるほど、つまり……。
「ノクトはすごいんだね!」
『……もうそれでいいわよ。ま、今のあたしにできる事なんてたかが知れているのは本当なんだし……』
疲れたように溜息を吐くノクトが、不意にその耳を動かすと、じっと壁の洞窟のひとつを見つめながら言葉を続けた。
『たかが知れているけど、無能ではないわ。二人とも用心なさい。魔物が来ているわよ』
どうやら魔物が近づく音が聞こえたらしい。
ドラゴンの時の僕だったら聞こえたかもしれないけど、今の僕だと生命力を活性化しないとあまり耳はよくないからなあ。
それにしても魔物かあ。
気絶する前にかなりの数をやっつけたと思うんだけど、またやってくるなんてどうしたんだろう?
洞窟を通っていた時は全然出てこなかったのに、あの兎を倒してから出てき始めた。
放り出していた兎を見つめていると、ちょっとだけ爪を出した前足で足の甲を叩いてきた。
『ほら、ぼうっとしない。色々と聞きたい事があるようだし、こっちも話しておきたい事があるけど、まずは邪魔者を片づけてからよ』
ノクトの言う通りだ。
僕が大きく息を吸い込んでマナを取り込んで、洞窟の奥を睨んだ。